死者がよぶ。フィールド・オブ・・・・。

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 最近,つくづく思うことがあります。それは,最近どうやらずぅっと昔に亡くなった,かつて熊野に何らかの関わりがあった人々(当然,故人ですが)に「よばれている」のではないかということです。

 死者に「よばれている」といえば穏やかならざることですが,それは死者の世界へ早くおいでとよばれているのではなく,アメリカ映画「フィールド・オブ・ドリームズ」のように,かつて熊野で暮らした人たちが自分たちが辿ってきた足跡を日本の歴史の上にきちんと位置づけして欲しいと願っての上のことではないか,と勝手に思っています。

 となると当然,彼等が最期の時を過ごした土地を訪ね歩くことも是非必要です。そこに何かがあるんじゃないか,そこに新たな展開があるんじゃないか,という思いに突き動かされてインターネットや私の個人ネットワークに引っかかってきた多くの地域を当てを求めて訪ね歩いております。

 ただ何せ現職の仕事が未だにありますのであまり自由がききません。是非とも行きたい土地にもろくに行けていない現状です。しかし,ちょっとした用事にかこつけては,あちこちを駆け歩いております。これも形を変えた巡礼の旅かな,とも思っています。

 地元の和歌山県新宮でもすでに忘れ去られ顕彰の碑文すらない『新古今和歌集』の歌人「法橋行遍」(13世紀初頭に法眼に上って亡くなりましたが)の足跡,18代熊野別当湛快・21代熊野別当湛増親子の足跡(前者は1174年に死去,後者は1198年に死去)などかなりわかってきましたが,未だ彼等の遺体の納まった場所は探し当てていません。魂の鎮まる場所は熊野神社各社であることは間違いないでしょうが・・・・。

 最近の収穫は,湛増の従兄19代熊野別当行範の孫に当る25代熊野別当「琳快」が13世紀前半に最期の時を迎えたとされる栃木県足利市を訪問したところ,その候補地(かつて熊野「権現堂」とよばれていました)の1つで,その寺の開山で熊野那智出身と伝えられる「叡海上人」の足跡と彼が担いできたと推定されている小ぶりで軽い阿弥陀如来像(秘仏)に出会ったことです。「叡海上人」は13世紀初頭に死亡していますので,琳快とは直接結び付きませんが,あるいは「琳快」の幽閉先がここではなかったか,と憶測しております。

 真実はわかりませんが,何か因縁のようなものを感じました。

 しかし,そのためもあってかもう1つの候補地には残念ながら行けませんでした。しかし,足利市には熊野神社が多いなあ(東北系か,紀州系かわかりませんが),という強い印象を持って帰ってきました。また,近いうちに行かずばならないでしょう。

 それからもう1つの収穫は,16世紀末期に非業の最後をむかえた,那智山廊之坊・勝山城主で瀧執行職をつとめていた「重盛」の終焉の地とそこに祀られた子孫による百年忌(??)の供養塔を那智の湯川(ゆのかわ)で見出したことです。未だ読めていない文字もありますが,ほぼ間違いないでしょう。