「熊野三山関係文書」あれこれ(修正)

熊野三山関係文書」が収載されている『冷泉家時雨亭叢書』51巻の『冷泉家古文書』の解説によると,これらの一群の文書は本来,冷泉家とは関係のない文書群のようです。

熊野三山関係文書」(98号~108号)は,期待していたよりも時代は新しく,文和5年(1356)から康正2年(1456)にかけての御教書が6通(検校前大僧正御教書が2通,3代将軍足利義満御判御教書が3通,8代将軍足利義政が1通),奉書が1通(大夫将監成基奉書),綸旨が2通(後小松天皇綸旨,後円融天皇綸旨),施行状が1通(管領斯波義教施行状),請文が1通(性元請文),全部で11通が揃っていました。

かなり専門的になりますが,二位法印御房宛の文書が1通,園城寺の子院である尊滝院の僧正御房宛もしくは理覚院の僧正御房宛の文書が7通,赤松上総(義則)入道宛の文書が1通,(理覚院)中納言法印御房宛の文書が1通でした。

これらの新しい文書の発見によって,今まで知られていなかった新しい熊野山領庄園・所領が見出されました。やはり執念をもって探して見るものですね。

①,熊野山領備前国吉永保

熊野三山関係文書」(『冷泉家時雨亭叢書』51巻の『冷泉家古文書』)の中で特に目に付く文書は,応永5年(1398)2月16日付けの「足利義満御判御教書」において熊野三山御上分料所としての備前国吉永保(現岡山県吉永町)への守護半済・使節入部が停止されていることです。宛先は理覚院僧正御房です。
また,応永16年(1409)2月16日付けの「性元請文」には,熊野山領備前国吉永保が登場し,領家方の所務職が請け負われています。
さらに,年号不明の11月12日付けの「後円融天皇綸旨」において熊野三山御上分料所としての備前国吉永保への違乱を止めるよう命じられています。宛先は理覚院の中納言法印御房です。

②,熊野山領和泉国吉見庄と熊野山領和泉国菟田庄

応永5年(1398)7月19日付けの「後小松天皇綸旨」において長講堂領「和泉国吉見庄」(現大阪府田尻町)が熊野山に寄進されています。宛先人は尊滝院僧正御房です。当時の熊野三山検校は修験道本山派の確立と大きなかかわりを持った20代の道意(在職1394~1429)です。
また,応永8年(1401)4月1日付けの「足利義満御判御教書」において熊野山領和泉国菟田庄のことが取り上げられ,吉見庄の一具神領となし,一円全領知することが命じられています。なお,応永14年(1407)3月日付けの「長講堂領御領目録」には,「吉見・菟田庄」「吉見方熊野山」とあって熊野山が給主になっており,菟田庄(うさいだしょう)とともに年貢として油五斗を進納していています(『大阪府の地名』〈平凡社〉)。
さらに,康正2年(1456)8月27日付けの「足利義政御判御教書」において,熊野山領和泉国吉見庄が四季御神楽をおこなう「厳重之神領」なので,一円を元のようにすべて領知し祈祷精誠するように命じています。

③,常住院領紀伊国雑賀庄

なお,ついでですが,「熊野三残関係文書」の1つ前に「理覚院関係文書」(94号~97号)が4通載せられ,康正2年8月27日付けの94号文書に「理覚院権僧正猷意」「菟田庄」「金剛峰寺」「熊野山」「吉見庄」のこと,長禄2年(1458)3月2日付けの95号文書に「雑賀庄」のこと,年号不詳5月20日付けの96号文書に「常住院領紀州雑賀庄」のことなどが記載されています。
常住院は聖護院の別称ともいわれ(宮家準『熊野修験』〈吉川弘文館,1992〉),ここからは熊野三山検校が多数輩出しています。当時の常住院門跡は21代熊野三山検校の満意(在職1429~1465)でしょうか。

小さな発見ですが,ここから新しい問題の展開が期待できそうです。