熊野三山の常住社僧

 古代・中世の熊野三山熊野別当(誤解されていますが,熊野別当は神官ではなくあくまでも社僧です)の下で社務に当たっていた人々は,神仏習合体制下の本宮(熊野坐神社)・那智(熊野那智神社)ではその殆どが社僧と呼ばれる僧侶で,神官は殆どいません。新宮(熊野速玉神社)は半々といったところで,神官と社僧の仕事の分担もはっきりしていたようです。
 社僧は単なる僧侶とは違います。社僧は肩書きをたくさんもっていました。まず,「御師」として祈祷師,宿房の主人,山内の案内役を兼任していました。それから,「衆徒」として山内の役職について一定の役務をこなしていましたし,在地領主(地主)として近在や牟婁郡・日高郡各地に所領や職を有していました。また,金融業者として活動する人物や一家もいました。ともかく,たくさんの利権を掌握していたようです。また,下っ端の熊野本宮の僧侶の中には,熊野川下りの船をあやつっていた僧侶もいたようです。
 社僧たちは,これらの既得権を守るため,妻帯・世襲して代々既得権を保ち,さらにそれらを徐々に膨らませていったのでしょう。
 奈良や京都の結構有名な寺社の院房でも白衣を着て世襲,つまり家業として代々一族で僧職を世襲している僧侶は多かったようです。そして,そのような官僧から再び出家(遁世)し,世を捨てて黒染めの衣を着る僧侶もたくさんいたようです。
 熊野別当家でも,南北朝時代前期の人物ですが,有名な熊野別当(21代)湛増の5代孫に当たる田辺別当家(蓬莱家)の「湛基」も理由不明ながらが出家(遁世)した1人で,系図に「遁世禅僧」と書かれています(『熊野三山熊野別当』参照)。