現白浜町 郷土の偉人・小山肆成について


 故郷・現白浜町出身の医師・小山肆成(こやましせい、1807~1862)の生家跡を通りかかりました。今そこには、こんな顕彰碑が建てられています。
イメージ 1

 大正時代、ここにはこんな建物があったそうです。
イメージ 2

 これから江戸時代末期の医師・小山肆成について紹介します。

 肆成は、文化4(1807)年、日置川畔、白浜町久木(ひさぎ)にあった旧家・久木小山家の嫡男として生まれました。

 久木小山家は、元来、南北朝時代~戦国時代にかけて日置川中流沿いの山間荘園であった「三箇庄」(みかのしょう)の山林や市江の湊などに利権を持つ「山林・水軍領主」として周辺一円を支配していました。なお、江戸時代には「地士」として紀州藩の禄を食んでおりました。久木小山家には、今でも膨大な中世・近世文書が残され、この地域の歴史や文化を知るうえで重要な役割を果たしてくれています。

 成人となった肆成は、熊野地方で流行した天然痘の悲惨さを目の当たりにし、幾多の困難を乗り越え寝食を忘れて8年もの間、天然痘の研究を続けました。そして、イギリスの医師・ジェンナーの種痘法について書かれた邱浩川撰『引痘略』を、師の高階枳園(たかしなきえん)から借り受けて校刻して『引痘新法全書』と題し、さらに全書の中から選んだ文をカナ交じり文化した『引痘新法全書付録』とともに刊行しました。
 そして、血の滲むような肆成努力と妻や周囲の人々の献身により嘉永2(1849)年に、日本初の天然痘ワクチンである国産の痘苗を作り上げることに成功しました。ジェンナー牛痘による種痘法を確立してから53年後のことでした。
 肆成は、自らが作り出したその成果を見届け、文久2(1862)年、56歳の生涯を終えました。