地震による「津波」という言葉の使用に関連して。


 最近読んだ本に、『日本史のまめまめしい知識』(岩田書院、2016)という面白い本があります。
イメージ 1

  退職してから、最近、あまり本を買わなくなりましたが、珍しく買おうと思ったのはこの中に、天野忠幸氏の「戦国淡路安宅水軍」という小論が収録されていたからです。しかし、読み終わった後、他の小論に目を通しているうちに、盛本昌広氏の津波という言葉の使用開始時期」という小論に目が留まりました。

 最近、大阪の高槻・枚方近辺で発生した陸上地震で死者5人を含む多くの被害が出ましたが、幸いにして津波の心配はありませんでした。しかし、和歌山県に住む私のような人間としては地震といえば「津波」という連想が湧くのは常でして、この時もちらっとこの連想が頭をかすめました。
 ちょっと硬い話になりますが、いい機会ですので、盛本昌広氏の津波という言葉の使用開始時期」という小論によりかかりつつ、歴史上、津波」という言葉を使用するようになったのはいつか、についてまとめておきます。

 「津波という言葉の使用開始時期」によると、「津波」という言葉の使用について、以下のようにまとめることができます。

 ➀、『太平記』巻36「大地震幷夏雪事」に、康安元年(1361)8月18日に大地震が起                            こり、「中ニモ阿波ノ雪ノ湊ト云浦ニハ、俄ニ太山ノ如ナル潮漲来テ、在家一千七百余宇、悉ク引潮ニ連テ海底ニ沈シカバ」とあるが、「雪ノ湊」とは現徳島県美波町由岐の港湾をさす。そして、同年7月24日に難波浦(現大阪市)が干上がり、辺りの浦の海人たちが魚を拾いに行ったところ、「又俄ニ如大山ナル潮満来テ」、海人たちは1人も生きて帰らなかったという。しかし、両者とも大山のごとき「潮漲来テ」とか「潮満来テ」とか表現されていますが、室町時代以前に「津波」という言葉が使用されたことはありません。

 ②、『王代記』享徳3年(1454)の部分に、「十一月廿三日夜半、天地震動シテ、、奥州ニ津波入テ、山ノ奥百里ニ入テ、カヘリ二人多取ル」とあります、これが津波」という言葉が使用された最初の史料です。これは、戦国時代に入るちょっと前の史料です。

 ③、『異本塔寺長帳』文明7年(1475)8月6日条に、「諸国大風津浪打揚、別シテ摂州海士崎大津浪ニテ、家夥、人モ千人余浪ニ被取」とありますが、「摂州海士崎」とは摂津の尼崎すなわち現兵庫県尼崎市をさしています。これは、『鎌倉大日記』同年8月6日条の記載(「大風、摂州難波浦大塩満上、尼崎・難波人多死」)により地震による「津波」ではなく「大風」すなわち台風による高潮のことをさしていると推定されます。

 ④、文亀3年(1503)6月につくられた伊豆の「多胡神社棟札」に、「両郷助成をもっ てかくの如く再興、津波以後宜しく当社成就」とあり、津波」という言葉が使用されています。この津波は著名な明応7年(1498)の東海地震によるものです。

 ⑤、そして、近世以後、地震発生とともに度々「津波」という言葉が使用されるようになります。

 以上。これらの記述は、あくまでも私の心覚え(メモ)の如きものですが、何かの参考になれば嬉しいです。