奈良時代の熊野の一豪族の出身で貴族にまで出世した熊野直広浜

 
 新年早々ですが、「カンボジア旅行日記」を休載し、阪本敏行「平城京で生活していた二人の熊野人――熊野直広浜と村君安麻呂」(和歌山県田辺市立図書館講演録)から、奈良時代の熊野の一豪族の出身で貴族にまで出世した熊野直広浜(くまののあたえひろはま)について、その経歴と事績を手直しして紹介させてもらいます。
 
熊野直広浜が所属していたと推定される牟婁郡内の有力氏族である熊野氏は、かつての熊野国造家の末裔といわれる牟婁郡内きっての名族であり大豪族でした。熊野国造については、『先代旧事本紀』所収の「国造本紀」に「野国造 志賀高穴穂朝の御世、饒速日命の5世孫・大阿斗足尼を国造に定め賜う」と記述されていることに注目したい。
「志賀高穴穂朝御世」とは、『日本書紀』でいうところの「成務天皇(当時は大王)の時代」に当たり、『先代旧事本紀』において、熊野国造の起源は「饒速日命(にぎはやひのみこと)の5代目に当たる「大阿斗足尼」(おおあとのすくね)が熊野国造に定められたことに起源を持つと主張されています。
前述したように、6世紀前半頃には、日本全国で地方の有力豪族が大和政権から国造に任命されていることは事実ですので、この時期に熊野が大和政権による全国支配の政治秩序の中に組み込まれつつあったと考えることもできます。
「大阿斗足尼(宿禰)」一族の初代に当たる「饒速日命」は、大化前代の大和政権を支えた中央豪族の物部連氏や阿刀連氏の祖先神でもありますので、「大阿斗宿禰」氏は中央豪族の物部連氏や阿刀連氏と同族であったといわれています。しかし、熊野国造家の末裔である熊野氏は、天香語山命(あまのかぐやまのみこと)を奉祭する尾張連氏(くまののむらじし)の影響を受けつつ同体化させた熊野高倉下命(くまのたかくらじのみこと)を神として奉祭し、熊野国の支配者として阿刀連氏を窓口に大和政権の傘下に入り、熊野国造に任命された熊野直氏と、物部連氏や阿刀連氏を介して中央政権と交渉を持ち、阿刀連氏と同族系譜を成立させ畿内に移住するに至った熊野連氏(『新撰姓氏録』に山城国神別氏族として登録)とを区別して考えるべきだという寺西貞弘さんの説も出されています。
 
ところで、この熊野直氏の一族として、奈良時代中期に熊野直広浜という人物が登場してきます。この熊野直広浜については、『続日本紀神護景雲三年(767)条に、「散事従四位下牟漏采女熊野直広浜卒」と記され、広浜がこの年に亡くなったことがわかります。
広浜の墓はまだ見つかっていませんが、田辺付近では以下にあげる丸橋丘火葬墓の骨壷や蓋つきの皿、奉納された古銭(和同開珎)などが発見されています(『田辺市史』4巻、P153〜P154)。
 
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広浜は熊野国造家の末裔である熊野氏の一族の出身であると見なすことができます。「散事」とは、高い位階を有しながらも官職に就いていない者をさしています。
養老令の規定によると、郡司にあたる大領(長官)、少領(次官)の姉妹及女(13歳から30歳まで)の中から特に形容端正な者が選ばれて「采女(うねめ)として都に上がり、女官として後宮に仕える定めになっていました。熊野直広浜は、牟婁郡出身の采女なので「牟漏采女(むろのうねめ)とよばれていたようです。
ということは、広浜の出身母体である熊野直氏の中心人物たちは、この時点で牟婁郡の郡領(長官・次官など)であった可能性があることになります。
 
さらに、『続日本紀天平17年(745)正月7日条によると、熊野直広浜は、同年同月同日に、聖武天皇後宮に仕えた功績を認められ、離宮紫香楽宮(現滋賀県甲賀市信楽町に所在)で、粟凡直若子や若湯坐宿祢継女、気太十千代、飯高君笠目らとともに正6位下から外従5位下に叙階され、一地方の出身者でありながら貴族の末端につらなうようになったことがわかります。
同年5月11日、聖武天皇は久し振りに平城京行幸し、そこを改めて都としたため諸司官人も帰京しました。当然、広浜らも女官としてこれに付き従ったのでしょう。
天平勝宝元年(749)、聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位。
天平宝字2年(758)、孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位。藤原仲麻呂が大保として政治的実権を掌握。
天平宝字5年(761)6月21日、広浜は、孝謙上皇の母であった光明皇太后の一周忌斎会への供奉により、多気宿祢弟女や多可連浄日らとともに従5位上から正5位下に叙せられました。
 
そして、天平神護元年(765)正月7日、広浜は、多可連浄日らとともに正5位上を授与されました。
そしてさらに同年10月22日、称徳天皇孝謙上皇重祚)の紀伊国玉津嶋行幸に際し、紀伊国の今年の調庸が皆免ぜられ、しかも名草・海部2郡の場合は調庸田租も免ぜられ、行宮側近の高年70歳以上の者は物を賜わりましたが、広浜は位1階を進められ従4位下に叙せられました。
これはおそらく彼女の長年にわたる采女としての勤めに対する褒章の意味もあったのでしょうが、やはりその背後には牟婁郡の名族・熊野氏に対する深い配慮の心が働いていたように推察されます。
なお、この他に、このことと関連して、翌年の天平神護2年(766)に熊野氏の氏神である熊野牟須美神速玉神に対して各々神戸4戸が与えられたこととの間に何らかの繋がりがあったと考えるべきだ、とする寺西貞弘さんの説も出されています。
 
ところで、『日本霊異記』の中に、孝謙天皇の時代(749〜758年)に藤原氏の氏寺・興福寺の僧侶・永興禅師が牟婁郡熊野村で布教活動をしていたという記事が度々出てきますが、この牟婁郡熊野村が現新宮市付近に比定できるならば、神戸郷の所在地は現新宮市であり、熊野氏は本来この付近を本拠地としていたと見なすことができるでしょう。
これに対し、最近、熊野氏が田辺に郡衙(郡家)を構え、三栖廃寺という白鳳時代(7世紀末期から8世紀初期にかけての時期)に郡寺を創建し、郡司として牟婁郷にいたと主張する竹中康彦さんの大胆な説も出されています。
しかしそうなると、熊野氏はなぜ本拠地であるはずの熊野村近辺に郡衙(郡家)や郡寺を造成せず、牟婁郷にそれらを造成したのかという新たな疑問が湧いてきます。
なお、下の写真のうち、上は塔跡の瓦積み基壇と石段の写真で、下は寺跡から出土した、屋根に設けられた石製天蓋の復元拓本です(『田辺市史』4巻、P450、P457)。
 
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郡寺である三栖廃寺の創建氏族について、かつて尾張国(現愛知県西部)において大和政権がその地域の国造級の大豪族を牽制する目的で、その大豪族に対抗していた他の中小豪族のために郡ごとに寺院を建立し、そこを拠点として国家権力を強化していった、との稲垣晋也さんの説をもとに、私は三栖廃寺を仏教普及のための前進基地と見なす立場から、熊野直氏以外の氏族を三栖廃寺の創建氏族として想定すべきだと考えています。
さらに付け加えれば、百済漢人系の渡来系氏族の副葬品と考えられるミニチュア炊飯具セットが出土した、三栖廃寺近隣の下三栖古墳(後谷古墳)1号墳などの存在に注目して、牟婁郷に郡衙(郡家)や郡寺を造成した氏族としては、大和政権の命を受けて派遣された未知の百済漢人系の渡来系氏族か、田辺湾内の岩陰遺跡(古目良岩陰遺跡、磯間岩陰遺跡)などの存在に注目して、牟婁郡内の贄や調の主要献上者である海部氏などを想定すべきかもしれません。