元那智山宝蔵院家の調査でわかってきたこと。

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 我が庭に白い水仙が咲いています。春が来ました。

 ところで、今回の元那智山宝蔵院家の調査で色々なことが分かってきたのですが、別の収穫もありました。

 それは、元那智山実報院家の分家である「春光坊家」の系譜が明らかにされたことでした。宝蔵院家がお預かりしていた位牌からそれが判明しました。

 系図に書けば次の通りになります。

 初代   2代    3代    4代    5代    6代    7代
  道義――道加――道快――道栄――道澄――道周――道祝――

 「道義」は、戦国時代の中頃に実報院道悦の次男としてこの世に生まれました。初名を道誉といったことが江戸時代末期に生存していた宝蔵院道広によって書かれた系図にメモとして記されています(春光坊之祖ハ悦之子道誉也)。道義の実兄は実報院家の跡を継いだ「道勢」です。

 道義は権少僧都になったようですが、文禄5年(1596)5月24日に井関村(現那智勝浦町井関)で死亡しました。

 その後、春光坊家は従来と同様に那智山内にも房を置くと共に、実報院家の拠点の1つであった川関村(現那智勝浦町川関)の那智川畔西南部に居を構え、江戸時代を通じて代々そこに住んでいたようです。

 なお、慶長4年(1599)6月吉日付けの「田楽再興日記写」に時之衆徒衆の1人として記載されている「春光坊」は名前は記載されていませんが、たぶん2代の「道加」をさしているものと推定できます。

 ちなみに、6代の「道周」の名前は、明和5年(1768)の「那智山田楽資料笠裏地」に前官瀧衆として出て来ています。