栗栖郷と村君氏

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 前回に引き続き、『大塔村史』に書かせてもらった原稿(初稿)の一部を載せさせてもらいます。

 写真(『和歌山県史 原始・古代編』より掲載)にあるように、薬を包むためにくちゃくちゃに丸められて破棄される可能性もあった正倉院文書の中に、牟婁郡出身の村君安麻呂の勘籍(戸籍を検査し、身分を確認したもの)がありました。
 これを読み取って活字に起こしたのが下の史料です。
  
   村君安麻呂年卅七
         紀伊国牟婁郡栗樔郷戸主村君辛兄之男
     天平十八年藉所貫栗樔郷戸主村君辛兄之男同部安麻呂年卅三
     天平十二年藉所貫栗樔郷戸主村君辛兄之男同部安麻呂年廿七
     天平五年所貫岡田郷戸主村君辛兄之男同部安麻呂年廿
     神亀四年所貫岡田郷戸主村君辛兄之男同部安麻呂年十四
     養老五年所貫栗栖郷戸主村君庭麻呂戸口君辛兄之男同部安麻呂年八
       天平勝宝二年二月廿一日

 この勘籍は、村君(村公)安麻呂が天平勝宝2年(750)2月に平城京にあった写経所の経師(写経生)として37歳の時に採用された時に役所に提出したものです。この勘籍によると、村君安麻呂は紀伊国牟婁郡栗樔郷の戸主村君庭麻呂の戸口村君辛兄の男として生まれました。しかし、村君安麻呂の父辛兄は、養老5年(721)から神亀4年(727)の間で、本貫の地を栗栖郷から岡田郷に移し、さらに天平5年(733)から天平12年(740)の間で、本貫の地を再び栗樔郷に戻しています。
 
 この理由について、班田収授法に関する説を手懸りに、口分田の班給地を遠くに与えられた事情によるのかもしれない、と推定する説も出されています。
 
 これに対して、当時の社会情勢の変化を踏まえると、村君辛兄は、共同体規制の解体に伴う各共同体を取り巻く生活環境の厳しさの中で、自分の家族を養い自らの戸を維持していくため、養老5年(721)から神亀4年(727)の間で敢えて本貫の地を栗栖郷から隣郷の岡田郷に移し、与えられた口分田とそれ以外の荒廃地や新開地の開墾に伴う私墾田の拡大に全力で取り組んでいったりしていることがわかります。つまり、ここでは現実の郷戸の移住が想定できるわけです。では、天平5年(733)から天平12年(740)の間で行われた本貫地の、岡田郷から栗樔郷への移動はどうかというと、当時の社会情勢から考えると、農業経営の危機を乗り切るための現実の郷移貫、それも村君氏の私氏神を祀るための、かつての本貫地への再移住を想定すべきでしょう。

 安麻呂が所属していた村君氏は、どうやら旧大塔村域も含まれると考えられる栗樔郷から岡田郷にかけての地域でかなりの勢力をもった氏族であったようです。

 今のところ名前がわかっているのは、安麻呂と安麻呂の父辛兄、そしてたぶん祖父に当たると思われる庭麻呂の3人だけです。しかし、後で触れるように、安麻呂が舎人に採用されたこと、さらにはかなり巧みに漢字が書けたため遅まきながら後に経師に採用され官位を授かり出世の糸口をつかんだことなどから、地方人としてはかなりの文化的教養をもった地方の有力豪族であったことがわかります。

 つまり、村君安麻呂は、村君氏が天皇家と関係深い 大和・山背国の巨大豪族・和爾氏と同族であったところから、その贔屓によって試験を受け、その成績によって東大寺政所(寺の領地に関する事務を扱った所)に舎人(もっぱら雑事に使役された下級役人)として仕えた後で経師として採用され、天平勝宝2年に平城京において少初位下の官位を与えられたようです。その後、他の官庁に移ったようですが、天平勝宝9年(757)まで4つの写経事業に経師として関係していたことがわかります。

【参考文献】
①、虎尾俊哉『班田収授法の研究』〈吉川弘文館、1961〉。
②、伊勢田進「歴史」〈『すさみ町誌』上巻所収、1978〉。
③、阪本敏行「律令制下の牟婁」〈『田辺―ふるさと再見―』所収、あおい書店、1980〉。
④、阪本敏行「村君安麻呂の経歴にかんする覚書」〈『熊高紀要』6号所収、1981〉。
⑤、阪本敏行「村君安麻呂の勘籍をめぐる諸問題」〈『くちくまの』6号所収、紀南文化財研究会、1982〉。
⑥、阪本敏行「平城京における一地方出身者の生活―村君安麻呂の場合―」〈『和歌山県社会科研究協会会報』6号所収、和歌山県社会科研究協会、1983〉。
⑦、寺西貞弘「みやこで暮らした牟婁の人」〈『田辺市史』第1巻通史編Ⅰの第三章第二節3所収、2003〉。
⑧、栄原永遠男「村君安麻呂とその一族」〈『紀伊古代史研究』所収、思文閣出版、2004〉。