蛇腹道と「壇上伽藍」の建造物 №②

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 次に、不動堂の近くにある石段をへて「壇上伽藍」下段から「壇上伽藍」上段に上がります。上段の建造物を紹介します。

 写真①と② 西南から撮った「根本大塔」と正面から撮った「根本大塔」です。空海の死後、弟子の実恵と真然の時代すなわち9世紀後期に真言密教の象徴的存在として創建されましたが、何度も火事で焼失してしまいました。
 現在の根本大塔は、1937年に創建時の高さ約49mの多宝塔として再建されました。

 写真③ 東側から撮った「金堂」です。金堂は、根本大塔の西南に位置しています。金堂は、高野山全体の本堂に当たる建物で、造営着手時には講堂とよばれていました。空海入定後に、嵯峨天皇の御願によって完成したことから、御願堂ともよばれました。数度の焼失をへて、1932年に瓦葺の建造物として再建されました。
 かつて、金堂には国重文の両界曼荼羅(平清盛筆)や国宝の絹本善女竜王像(三井定智筆)が内陣に安置されていました。しかし、秘仏とされた本尊の不動明王像は1926年の大火で焼失してしまいました。現在ある不動明王像は近代の彫刻家・高村光雲によって復元されたものです。

 写真④と⑤ 東南から撮った「御影堂」とほぼ西南から撮った「御影堂」です。元は、空海の持仏堂でしたが、弟子の実恵が真如法親王筆の空海肖像画を安置する御影堂にしました。
 現在の御影堂は、1848年に宝形造の御堂として再建されました。

 写真⑥ 東南から撮った「准胝堂」と「孔雀堂」です。
 准胝堂では、空海が得度・剃髪した際に本尊としていた准胝観音像が祀られています。数度の火災をへて、1883年に桧皮葺の建造物として再建されました。
 孔雀堂は、正冶2年(1200)に後鳥羽上皇の御願いにより東寺の延杲が祈願所として創建した御堂で、当初は孔雀明王院とよばれていました。本尊は、国重文で快慶作の孔雀明王像です(写真⑦)。1926年の火災をへて、1983年に桧皮葺の建造物として再建されました。

 写真⑧ 壇上伽藍の東端にある東塔に対して西端には「西塔」が建てられています。真然が光孝天皇の命令により創建した瓦葺の多宝塔です。
 本尊五仏の中尊に当たる仏が3日前に紹介した国重文の大日如来坐像(写真⑨)です。
 建物は、3度焼失し、1834年に再建されました。

 写真⑩ 西塔の南には、雅真が地主神の丹生明神と高野明神を勧請して祀ったといわれている、流造の「明神社」(国重文)があります。現在の社殿は、天正11年(1583)に再建されました。

 写真⑪ 明神社の拝殿に当たる、11世紀中頃創建の「山王院」です。この入母屋造の建造物は、文禄5年(1594)に再建されました。