「河内飛鳥」自転車行(バイサイクリング) №2

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 前回に引き続いて,「河内飛鳥」自転車行(バイサイクリング)を書いていきたいと思います。

 写真①,写真②,「推古陵古墳」(南河内郡太子町山田字高塚)は,正式には磯長山田陵とよばれています。東西63m,南北56mの3段式の長方墳です。1墳丘2石室という特徴をもっています。この古墳は当初,竹田皇子の墓として営まれたそうですが,後に推古大王の遺言によってここに追葬されたといわれています。
 ところが,これにも異説があります。現在の「推古陵古墳」は,実は堅塩媛の墓であり,昨日最後にふれた「二子塚古墳」こそ本当の「推古・竹田合葬陵古墳」である,という説が門脇禎二氏によって2000年に出されています。さて,どちらが正解なんでしょうか??

 写真③,図面④,「仏陀寺古墳」(南河内郡太子町山田)は,横口式石槨をもつ古墳です。現在,その中に納められた家形繰抜石棺の天井石(図面参照)を露出した状態で観察することができます。封土の大半は流失していますが,一辺が25mほどの方墳で,『河内名所図会』によると蘇我倉山田石川麻呂墓だと伝承されています。

 写真⑤,かつて「仏陀寺古墳」の近くにあった「松井塚古墳」(南河内郡太子町山田)から,写真にある家形繰抜石棺が井戸掘り作業中に発見され,現在,叡福寺境内に置かれています。埋葬者の名前は不明ですが,たぶん蘇我氏の一族だろうといわれています。
 
 写真⑥,「用明陵古墳」(南河内郡太子町太子春日)は,正式には河内磯長原陵とよばれています。東西65m,南北55mの3段式の長方墳です。周囲に空堀があります。用明大王は,聖徳太子の父親で,大臣蘇我馬子の時代に,当初埋葬された大和磐余池上の地からここ河内磯長の地に改葬式されたといわれています。

 『大阪府の歴史散歩下』(1990),パンフレット『河内飛鳥の古墳群と史跡』(関西大学古代史研究会,2009)を参照させていただきました。