「河内飛鳥」自転車行(バイサイクリング))№3 「叡福寺」と「聖徳太子墓」

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 「河内飛鳥」自転車行(バイサイクリング)もいよいよ最後になりました。

 ついに,今回の研修遠足の目玉というべき,「聖徳太子墓」のある「叡福寺」(えいふくじ,南河内郡太子町太子)に到着しました。奈良時代聖武天皇の時代にここに聖徳太子の追福のため東西両院(東院を東福院といい,両院を「叡福寺」といいます)が建設されました。しかし,戦国時代末期に織田信長によって全焼せしめられたため,伽藍は江戸時代以降に豊臣秀頼らによって再興されました。

 地図①,この地図は,見にくいでしょうが,現在の「叡福寺」内の伽藍配置を示した地図です。

 写真②,写真③,「叡福寺」の「金堂」」(大阪府指定文化財)です。②は斜めから撮ったもの,③は正面からの写真です。江戸時代に建造されました。

 写真④,「叡福寺」の「多宝塔」(国指定重要文化財)です。やや逆光気味です。江戸時代に建造されました。

 写真⑤,「叡福寺」の奥に設けられた「聖徳太子墓(磯長墓)」で,墓の奥に母親の間人皇后を埋葬した石棺(621年),その石棺の手前に聖徳太子と膳手媛妃の乾漆棺が並べて葬られています。「3骨1廟」の陵墓といわれています。
 
 図面⑥,宮内庁陵墓課が製作した「聖徳太子墓」の平面および断面の実測図(2009年)です。西本先生が今回のために用意された「叡福寺と聖徳太子墓」には,2008年の宮内庁の墳丘調査で,「聖徳太子墓」は楕円形の3段築成の円墳(東西43m,南北53m)であることが判明したと記載されています。

 図面⑦,「聖徳太子墓」の「横穴式石室」の推定復元図(梅原末治氏製作)を西本教授が一部改変した図面です。

 写真⑧,「叡福寺」の「浄土堂」です。江戸時代に建造されました。

 写真⑨,「叡福寺」の「了忍上人墓」です。七層塔です。

 病み上りの人間にとっては大変だったですが,関西大学の学生の皆さん方のお気遣いと指導された西本先生のご配慮のお蔭で,よれよれになりながらも無事完走することができました。
 でも,翌日へのダメージは若い頃に比べると殆どありませんでした。これは不可思議な現象です。

 『大阪府の歴史散歩下』(1990年),パンフレット『河内飛鳥の古墳群と史跡』(関西大学古代史研究会,2009年),西本昌弘「叡福寺と聖徳太子墓」を参照させていただきました。