新宮の丹鶴城跡訪問

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 2月7日,新宮の丹鶴城跡へ登って来ました。

 慶長5年(1600),それまで新宮を支配していた地元生え抜きの戦国大名の堀内氏に代わり,浅野幸長甲斐国から紀伊国に入り,新しい藩主となりました。そして翌年,浅野幸長の次男忠吉が新宮に入り,直ちに当地に城を築き始めました。忠吉はまず当地にあった寺院を他所に移し,縄張りを始めました。新宮丹鶴城は,幾多の歴史的変遷をへて,元和5年(1619)にほぼ完成しました。

 しかし,新宮丹鶴城の築城工事そのものは,新城主となった紀州藩付家老・水野重仲(水野家初代)に引き継がれ,2代新宮城主・水野重良による寛永10年(1633)の増築をへて,寛文7年(1667),3代新宮城主・水野重上の時代にようやく3万5000石の本城として完成されました(『新宮市史』)。

 完成された時には,本丸の西に鐘ノ丸が,そしてその北に松ノ丸が別につくられていました。大天守閣は3層もしくは5層であったようです。紀州藩付家老・安藤氏の田辺城が平城で,しかも天守閣を持たず本丸に陣屋だけを構えていたことを思うと,新宮丹鶴城が常に戦闘状態を前提につくられた平山城であったことがわかります。

 今回,復原された西門(1枚目の写真)から入り,殆ど原形を留めた石段(2枚目の写真)をゆっくりと登りました。松ノ丸に入る門の両側の石塁(石垣,3枚目の写真)を眺めつつ,平地にされていた松ノ丸に入りました。
 そのまま鐘ノ丸に入り,残っていた庭園跡(4枚目の写真)で一服しました。

 鐘ノ丸端の本丸の石塁(5枚目~7枚目の写真)を眺め(建物は最近建造の便所です),本丸に入る門の両側の石塁(8枚目の写真)を眺めつつ本丸へ。
 6枚目の写真からおかしかったのですが,電池切れのため撮影不能となり,本丸では良い写真が撮れませんでした。写すべきものが殆ど何もなかったので,良かったのですが・・・・。

 鐘ノ丸へ下りたところで展望台にいた小学生らしい子供達に「松下先生!!」と声をかけられました。周りには他に誰もいないので,しなくてもいいのに取り敢えず振り向いて手だけを上げたのですが・・・・ところで,「松下先生って誰だ??」と自問しつつ,私とよく似た人が新宮にいるのかな,と思いながら下山しました。