駆け足で,熊野速玉神社→阿須賀神社→徐福墓伝説地→三輪崎八幡神社を廻って来ました。

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 2月7日,神倉神社,新宮丹鶴城跡へ行ってきた後,駆け足で熊野速玉神社(1枚目の写真)→阿須賀神社(2枚目の写真)→徐福墓伝説地(3枚目の写真)→三輪崎八幡神社(4枚目の写真)を廻って来ました。

 阿須賀神社の南に徐福の墓と言い伝えられている伝説地があります。
 中国人徐福は秦帝国始皇帝の命令により不老不死の薬を求めて数千人の子供達を率いて蓬莱山に向かって中国から船出しましたが,ついに帰国することなくその消息がとだえました。
 ところが,日本には,徐福が熊野地方に漂着し,熊野で没したという伝えがあったようで,1600年後の永和2年(1378)に中国に渡った日本僧絶海中津が明帝国の太祖皇帝に謁した際に徐福の消息について訊ねられたところ,これに対して熊野峰前に徐福の祠があると答えています。
 さらに,『紀伊風土記』によりますと,慶長年間(1596~1615)の熊野新宮修営に際して「徐福之墓」が築かれたようです。
 現在,その地には中国渡来の儒臣李梅渓筆の「秦徐福之墓」碑と藩儒仁井田好古撰の「秦徐福碑」が建立されています。
 なお,かつて近辺に「七塚」と呼ばれた古墳もあったようで,徐福に関連した伝承も残されています。 さらに,阿須賀神社の背後にある蓬莱山の名は,徐福がここに生育する薬草の天台烏薬を採取した,という伝えに由来しているといわれています。
 ただ,私はあんまりこの伝説は信じていませんが・・・・。

 『万葉集』で「神の埼狭野の渡り」「神の崎荒磯も見えず」などと詠まれた三輪崎は,中世においては熊野新宮領佐野庄(三輪崎~佐野にかけてあったとされる庄園)に含まれていました。
 しかも,室町時代中期の寛正4年(1463)3月21日付けの「旦那売券」に「箕輪崎政所」と記されているところから,いつの頃からかこの辺りに佐野庄の政所が置かれていたと考えられています。
 江戸時代,三輪崎には二歩口役所も置かれ,有数の漁港・捕鯨の基地として栄えていました。また,ここは三輪崎鍛冶の発祥地としても有名でした。
 集落内にある三輪崎八幡神社の例祭は9月16日に行われますが,その際に奉納される鯨踊りは県無形民俗文化財に指定されています。