ラオスの略史

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 このへんでラオスの歴史に関して北部・中部を中心として簡単に紹介してみたいと思います。

 元来,ラオス北部・中部では先住民族としてオーストロアジア語族に所属するモン・クメール語族系統の人々が北部の山地を中心に住み着き,焼畑移動耕作をおこなっていました。

 1枚目の写真。ラオス中部にあるジャール平原の石棺群。紀元前3世紀~紀元後3世紀の先住民族の遺跡でしょうか。ここへ行きたかったなあ。

 南部では,5世紀頃,チャムサーパックを占領した先住民族・モン・クメール語族系統のクメール民族がつくったチェンラ(真臘)王国がメコン川下流域に勢力を広げクメール(カンボジア)帝国を築きました。

 2枚目の写真。ラオスにある12世紀頃の遺跡としてワット・プーが世界文化遺産に指定されました。『地球の歩き方ラオス―』(ダイヤモンド・ビッグ)より掲載。ここへも行きたかったなあ。

 そこへ11世紀頃,タイ諸族の一派であるラオ民族がラオスメコン川流域に南下してきました。「ラオ」という言葉は元来,「人間」を意味していました。
 ちょっとややこしくなりますが,当初,彼等はラオ民族と名乗らずタイ民族と名乗っていたようです。
しかし,ラオ民族(タイ民族)は水田を中心とした稲作農業を営み人口を増加させつつ,ラオス北部を中心とした地域に定住していきました。そして13世紀頃,一定の政治的まとまりを持った「ムアン」(城壁を持った一定規模の集落)をつくり始め,先住民族の上に「ラオ」すなわち「主権者」「偉大なる権勢者」として君臨するようになり,先住民族のモン・クメール語族系統の人々を「カー」すなわち「奴隷」として使役するようになりました。

 ラオ民族の伝承によれば,ムアンサワー(現在のルアンパバーン)をつくったクンローの25代の子孫・ファーグムは,父に疎まれ筏に乗せられてメコン川に流されましたが,メコン下流で繁栄していたカンボジア(クメール)王国に流れ着き,そのままクメール王の宮廷で成長しクメールの王女を妃とするまでになりました。

 ファーグムは,1349年,クメール人達を率いてムアンサワーに帰り,その後,ビエンチャンやシェンクアン,シプソンチュタイなどの「ムアン」を征服し,1353年,ルアンプラバーンを首都とするラーンサーン王国(「百万の象の国」,1353~1707)を建設しました。
 ファーグムは,妃の願いにより国教を上座部仏教とし,クメール王国から三蔵経と仏像(プラバーン仏)を送らせ崇拝の対象としました。

 3枚目の写真。プラバーン仏(プラバーン仏)。伊東照司『東南アジア美術史』(雄山閣)より掲載。

 4枚目の写真。現在のルアンプラバーン(ルアンパバーン)の光景。『地球の歩き方ラオス―』(ダイヤモンド・ビッグ)より掲載。

 ラーンサーン王国の全盛時代は,ワット・シェントーンを建立しビエンチャンに遷都したセーターティラート王の時代からスリニャーウンサー王の時代にかけて,すなわち16世紀から17世紀にかけての時代だといわれています。

 5枚目の写真。ビエンチャンにあるワット・ホーパケオ。1560年,セーターティラートによって建てられたが,破壊された後で1942年に全面修築。

 しかし,18世紀に入るとラーンサーン王国ビエンチャン王国とルアンプラバーン王国に分裂し,さらにチャムパーサック王国に分裂してしまい,その後,タイのシャム王国の支配を受けるようになりました。

 ところで,モン・ヤム語族に属しているモン族やヤム族などは,19世紀前期頃に迫害を逃れて新たに中国南部やヴェトナム方面から移住して来た民族です。彼等の生業は,焼畑耕作による稲作農業で,餅米系統の陸稲を栽培しています。以前は,稲穂を以前紹介した特殊な道具で摘み取って収穫していましたが,現在では三日月形の鉄鎌で根刈りして収穫しています。彼等は,ラオ民族と違って上座部仏教徒ではなく,精霊(ピー)を信仰する民族です。

 6枚目の写真。モン族の村。石井米雄・桜井由躬雄『世界の歴史12巻 東南アジア世界の形成』(講談社)より掲載。

 チベット語族に属しているアカ族もまた19世紀から20世紀にかけて新たに移住して来た民族です。彼等の生業も,焼畑耕作による稲作農業で,餅米系統の陸稲を栽培しています。やはり精霊(ピー)を信仰する民族です。

 以上のことを記述するにあたって,石井米雄・桜井由躬雄『世界の歴史12巻 東南アジア世界の形成』(講談社,1985)や『ラオス概説』(めこん,2003),横山智・落合雪野『ラオス農山村地域研究』(めこん,2008)などの文献を参考にさせてもらいました。