弁慶まつりの演劇上演の際の弁慶の父とされる熊野別当湛増の風体について異議あり

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 10月2日から4日にかけて,東京,横浜,京都,大阪を所用で渡り歩いてきました。
                   
 今年も10月3日に弁慶まつりが開催され,同時に闘雞神社で「弁慶伝説」の演劇が上演されたようですが,『紀伊民報』2008年10月4日付けの記事に掲載された写真を見てみますと,今年もまた,右の隅の方に立つ「熊野別当湛増は社僧であり神官ではない」という史実は,完全に無視されたようです。

 どんな圧力がかかっていたんでしょうか。

 いずれにしても,こうして間違った歴史が一般の人々の間に行き渡っていく危険を憂う次第です。

 繰り返しになりますが,改めて,弁慶の父と伝えられる熊野別当湛増」がどのような格好をしていたか,紹介してみたいと思います。
 熊野別当は,平安時代末期,上皇女院・上層貴族などの「御師」をつとめ,祈祷・宿泊の世話・山内の案内などの仕事に従事していました。クリーブランド美術館所蔵の「熊野曼荼羅」(鎌倉時代制作)に,熊野本宮の証誠殿(阿弥陀如来を祭祀する社殿)の前で先達や,檀那である武士六人と女性一人を従えて経を唱える素絹・白衣に袈裟を纏った社僧の後姿が描かれています。さらに,有名な『一遍上人絵伝』(鎌倉時代制作)にも,熊野本宮の結神〈観音菩薩〉及び速玉神薬師如来〉を祀る社殿の前で先達や,檀那である武士3人と女性3人を従えて経を唱える素絹・白衣に袈裟を纏った社僧の後姿が描かれています。

 これが鎌倉時代の本宮の「御師」です。ということは,この「御師」が熊野別当家の一員か,あるいは熊野別当本人をさしていると見てもさしつかえなかろう,と思われます。

 湛増(1130~1198)は神仏混交時代の熊野本宮大社や闘雞神社の社僧でした。しかも,法眼という僧位と妻帯を官許された官僧であり,元暦元(1184)年以降は,熊野三山の元締めというべき21代目熊野別当でもありました。その人物が,貴族や武士・神官が着用する立烏帽子・狩衣の姿をして公式の場にその姿を曝すことはまずありえません。

 その風体は,頭は現在の僧と同様にきれいに剃り上げ,官僧としての正装である白い衣に白い袴を身に纏い,さらにその上から法眼や法印の位に相応しい袈裟を着用していたと推定されます。
 湛増の姿をより史実に近づけ,そうすることによって祭りを盛り上げ,「弁慶伝説」に対する市民の意識を高めていただきたいと思います。

 今後ともこの史実にのっとった主張を展開していきますが,主催者および関係者各位の常識ある対応を願って止みません。