紀南文化財研究会の会誌『熊野』134号が発刊されました。

イメージ 1

イメージ 2

 我が家の中庭では桔梗の花が見事に咲いています。

 紀南文化財研究会の会誌『熊野』134号(57頁)が2008年6月に発刊されました。日付は諸般の事情により2008年5月24日になっています。

 以下に目次を示しておきます。会員以外の方は和歌山県田辺市のあおい書店や多屋孫書店でお買い上げください。

 論考
  南方熊楠と田辺町の米騒動・・・・・・・・池田孝
  「那須与一と如々山不動寺」の伝承についての若干の考察・・・・・・・・西田孝道
  周参見浦漂流人に関しての覚書・・・・・・・・杉中浩一郎
  田辺・蓬莱池から出た名号碑・・・・・・・・吹揚克之
  熊野別当湛増の風体と略伝・・・・・・・・阪本敏行
  文化財ニュース・会合メモ・編集後記

 今回も会員の皆様がたのお陰で力作論文が集まりました。

 池田孝雄氏の論文は,田辺町でおこったとされる米騒動について,大正七年八月一九日付けの「大阪朝日新聞」の記事と大正七年八月一九日付けの「牟婁新報」の記事のどちらの記事が正しい情報を伝えているか,について,南方熊楠の「上松蓊宛書簡」や,和歌山市の状況などを引き合いに出しながら,南方熊楠の話は噂話にもとづいて書いたり大風呂敷を広げて書いたりしている部分が多くあまり信用できないことなどから,むしろ「牟婁新報」の記事の方が事実を伝えていると結論づけ,田辺町の米騒動にかんする「あったとする」通説を否定しておられます。
 注目すべき論文です。

 西田孝道師のご高論は,那須与一の本家筋の福原家系図にある「紀州の三藤にて死去」との記述をもとにこの「三藤」が「三栖筋」をさしていると推測し,自坊の不動寺の歴史を調査しなおし,不動寺にある鎌倉時代のものと推定される宝篋印塔が那須与一終焉地に建てられた墓であると結論づけておられます。 この宝篋印塔を建てたのは誰か,という問題については,今後,その時代性の問題も含めて,那須与一の後裔と伝えられる那須定守との関係を軸にして学際的な研究を進めていくべきでしょう。
 今後の研究の進展に期待したい。

 杉中浩一郎氏のご高論は,天保期の栄寿丸異国漂流の記録『東航紀聞』と,周参見出身で沖船頭をつとめていた善助の「漂流記」および同じ周参見出身の弥市の「漂流記」などを通じて漂流の様子を紹介し,さらに彼等漂流民のメキシコでの生活と現地住民との交流の様子を実り深いものであったとして的確に表現しておられます。是非とも多くの方々に読んでいただきたい好論です。

 このほか,小論ですが,徳本上人の名号碑にかかわる問題を俎上に上げて論じられた吹揚克之氏の論文,それからなぜか地元田辺で誤って理解されている熊野別当湛増の風体について論じた阪本敏行論文も,是非お読みいただきたいと思います。