遊行寺境内の熊野社
藤沢市の遊行寺と熊野本宮大社との間には,古くから特別な関係が存在していました。
七百数十年前から,遊行上人が上人の位に着く際には,必ず熊野本宮大社に出向き,熊野坐神である家津御子神や宮司を始めとする神社関係者に報告を兼ねた挨拶をおこない,さらに研修僧もまた最後の研修課題として熊野本宮大社に出向き,家津御子神に報告をおこなうそうです。
両者の間には,一遍上人が成道して以来の非常に親しい関係があることがわかります。
しかも,その特別な関係を物語るものとして,宝物館には,1枚目の写真に見られる江戸時代の「熊野大権現神輿」と,2枚目の写真に見られる安政三年(1856)五月付けの「熊野社名額」,さらには神輿の中に納められていたものが展示されています。
ところが,不思議なことに,境内をいくら探しても遊行寺境内に熊野社がありません。確か勧請されて祀られているはずなのに,不思議でした。
ところが今回,宝物館学芸員の遠山元浩氏によって,「相州藤沢山遊行寺境内緒堂略絵図」の中からそれを物語る資料,3枚目の写真に掲げた「旧遊行寺本堂脇に祀られた熊野社」が新たに発見されました。
たぶん関東大震災で遊行寺が被害を受けた時,熊野社も他の貴谷社などと共に焼失してしまったのではないか,と推定されています。
結局,宝物館に展示されている「熊野大権現神輿」や「熊野社名額」などはその際に焼失を免れたものだったことがわかります。奇しき縁が存在したんですね。
七百数十年前から,遊行上人が上人の位に着く際には,必ず熊野本宮大社に出向き,熊野坐神である家津御子神や宮司を始めとする神社関係者に報告を兼ねた挨拶をおこない,さらに研修僧もまた最後の研修課題として熊野本宮大社に出向き,家津御子神に報告をおこなうそうです。
両者の間には,一遍上人が成道して以来の非常に親しい関係があることがわかります。
しかも,その特別な関係を物語るものとして,宝物館には,1枚目の写真に見られる江戸時代の「熊野大権現神輿」と,2枚目の写真に見られる安政三年(1856)五月付けの「熊野社名額」,さらには神輿の中に納められていたものが展示されています。
ところが,不思議なことに,境内をいくら探しても遊行寺境内に熊野社がありません。確か勧請されて祀られているはずなのに,不思議でした。
ところが今回,宝物館学芸員の遠山元浩氏によって,「相州藤沢山遊行寺境内緒堂略絵図」の中からそれを物語る資料,3枚目の写真に掲げた「旧遊行寺本堂脇に祀られた熊野社」が新たに発見されました。
たぶん関東大震災で遊行寺が被害を受けた時,熊野社も他の貴谷社などと共に焼失してしまったのではないか,と推定されています。
結局,宝物館に展示されている「熊野大権現神輿」や「熊野社名額」などはその際に焼失を免れたものだったことがわかります。奇しき縁が存在したんですね。