現在の「ささやきばし」と近代以前の「ささやきばし」の位置

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 1枚目の写真は,新設なった現在の本宮の「ささやきばし」の写真です。そして,2枚目の写真はその「ささやきばし」から見た「大斎原(旧熊野本宮大社)」の新大鳥居とかつての東鳥居跡付近を撮った写真です。

 しかし,近代以前の「ささやきばし」の位置はここではありませんでした。

 では,どこにあったのでしょうか。

 現在の「熊野本宮大社」の表鳥居から国道169号線を渡りますと,「大斎原(おおゆのはら,旧熊野本宮大社)」への新しい石畳の参道があります。

 室町時代に書かれた『熊野詣日記』によりますと,この付近から少し南に下がった辺りは,「鳥井の辻」とよばれ,道も比較的広かったようです。

 江戸時代の『熊野巡覧記』によりますと,道は,そこからさらに少し下がった所で,西から東に蛇行して来た「音無川」本流に遮られていましたが,いつの頃かそこに「耳語橋」(ささやきばし)とよばれる板橋が架けられました。江戸時代末期の「熊野本宮并諸末社図絵」にも,神事をおこなう際に使われた「御旅所」の南側に,その橋は描かれています。

 「ささやきばし」が架けられた所がどこかは不明としかいいようがありませんが,現在の本宮郵便局付近にあったと考える坂本勲生氏のような人もいます。

 その当時,人々は,その橋を渡り終えた後で左折し,「音無川」に沿って参道を走り,熊野川の畔にある産田社(うぶたしゃ)の手前で右折し,そのまま南に進んだ場所で蛇行して来た「音無川」を草鞋をはいたままで渡り,東鳥居(本来の入口)を潜って「大斎原(旧熊野本宮大社)」に至り「ぬれわらじの入堂」を果たしていました。

 しかし,江戸時代末期に「音無川」本流は,直線に付け替えられ,それとともに「ささやきばし」の位置もさらに南の「大斎原」の西鳥居に近い現在地に架けられることになりました。

 これが現在の「ささやきばし」です。