新視点からの熊野古道散歩-和高社研第4ブロック現地研修会報告-№3

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            新視点からの熊野古道散歩
             -和高社研第4ブロック現地研修会報告-№3

       3,高原から滝尻に向かって下り,滝尻山中の行場を見学

 ワンポイント・アドバイザーのK氏にお礼をいって別れた後,滝尻方面に向かいました。途中,高原集落の中にある「高原熊野神社」のそばを通りました。

 「高原熊野神社」は,熊野街道(中辺路)沿いに鎮座しています。ここには熊野の若一王子が祀られていますが,創建時期がおくれたためか,熊野九十九王子社には数えられていません。創建されたのは,ご神体である応永10年(1403)卯月27日付けの懸仏の存在から,応永10年だとされていますが,『紀伊風土記』には「熊野権現社,〈中略〉一村の産土神なり,応永九年本宮より勧請すといふ」と記載されています。

 応永,天文,天正の棟札があると記されていますが,江戸時代のそれを除くと天文のそれ以外の棟札は確認されていません。

 なお,春日造りの本殿は県文化財に指定されています。後世の修築を受けていますが,内陣に安置された宮殿は室町時代前期に建造されたといわれています。

 神社の森には,トチや楠の木々がたくさん生い繁っています。

 なお,これから先の古道とされている尾根上の道について小山靖憲氏は疑問を呈し,本来の古道は現在の自動車道に吸収されてしまっていると見なし,本来の熊野古道を辿るつもりならば,高原熊野神社の裏道を少し行った所から車道に降りてそのまま下っていくべきだと主張しておられます(『熊野古道』の当該道の逆読みと普段からの口頭による個人的レクチュアーによります)。

 しかし,私達は車道の中側にある新たに整備された道に沿って滝尻方面に向かいました。

 車道との分岐点から約1㎞ほど,道を上り,途中で,山伏たちが利用したと推定される飯盛山(標高340m)の尾根道を示しつつ,そこに「飯盛山経塚」が営まれたことを滝尻のM氏によって新しく示された史料の存在(その史料とは経筒の小片2点だけ)から説明しました。

 もっとも,その尾根道を当日踏破したのは,極く少数の人たちで,私は山腹をめぐる近世の楽な道を辿りました。

 さらに,「剣ノ山経塚跡」でも,そこからかつて鎌倉時代末期の経壷と経筒が発見されていることを説明し,後で熊野古道館でそれぞれの発見物について確認することを勧めました。

 なお,これから下り道であるが,剣ノ山(標高371m)からの下りはある意味で上り以上に厳しい道である,と思います。特に疲れた足にはかなりこたえるはずです。十分に両足を揉み用心して下ることにしました。

 途中で,静岡県袋井市教育委員会の山本義孝氏によって確認された田辺市中辺路町滝尻の山中にある山伏の行場を見学しました。

 古記録には全く記されていない「不寝王子社」のすぐ近くに,「乳岩」がありますが,この「乳岩」は児玉荘左衛門著『紀南郷導記』に「秀衡が窟」と記されている巨岩の1つです。

 『紀伊国名所図会』(熊野編)には,滝尻王子の項目に,奥州の覇者となる藤原秀衡の奥方が熊野参詣の途中で産気づき近くの岩屋で男子(和泉三郎忠衡)を産んだが,その時に熊野の神に安産の願をかけたところその通りになったので,お礼のためここに七堂伽藍を造営し,経典や武具(その中には,平安時代後期の作品で備中国古青江有次の銘を有する国指定の重要文化財の黒漆小太刀もあったと思われます)を納め,その御堂を秀衡堂と名付けたと書かれています。

 しかし,実は,「乳岩」は別名「亀石」とも呼ばれる磐座(いわくら)の1つで,「窟」のようになっています。1枚目の写真は,山本義孝氏提供の,「乳岩」を上から撮った写真で,垂迹神が降臨してくる岩を写したものです。その下の「窟」の中に,垂迹神の依り代となる標石がすえられています。つまり,ここは山伏が神降ろしをする修行の場所でもあったわけです。

 なお,この「窟」内から昭和58年(1983)に中世~近世にかけての古銭(中国銭・日本銭)6枚が発見されています。

 垂迹神が降臨場と推定されている所はもう1つあります。それは「胎内くぐり」と呼ばれる,磐座と同じ「窟」状の遺構です(2枚目の写真)。岩上には垂迹神が降臨場や,「窟」内に据えられた神の依り代となる標石もあります。私達は,現在,下からこの岩場を潜って行きますが,胎内という言葉にこだわれば,上から潜って行くべきでしょう。

 なお,この「窟」内からやはり昭和58年に中世から近世にかけての古銭(中国銭・日本銭)9枚が発見されています。

 近くにはまだ経塚がたくさん眠っているようです(3枚目の写真)が,すでに滝尻王子社境内の傾斜地四ケ所(一括して「滝尻経塚群」という)から,平安時代の末期の青銅製経筒残欠・古銭(中国銭・日本銭,約50枚)・青白磁の合子・鉄鏃残欠・和鏡・刀子・湖州鏡・鉄器などが出土しています。

 下る途中の,椎や樫などの林の下には,シイタケ栽培の木が多く積まれていました。
なお,中世の道は現在の道のようにジグザクに下って行く道ではなく,尾根上を急激に下り滝尻王子社左脇に出て行く急坂だったようです。しかし,今回はその道の入口だけを示し,私達は近世の道をジグザグに下りました(4枚目の写真)。