「発心門王子社跡」

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 「発心門王子社」(ほっしんもんおうじしゃ)は,熊野九十九王子の1つとして知られていました。県指定史跡です。その初見は,『中右記』天仁2年(1109)10月25日条で,「発心門」王子社として登場しています。

 なお,「発心門」は,分注にあるように「大鳥居」であったようで,熊野に参詣する人々は,この前で潔斎し,必ずこの鳥居を潜る定めになっていた,といわれています。しかし,その門の位置については色々と説があり,時代によって移動していたことが推定されます。この日,実は,中世の「発心門」の伝承地を探し,そこを通る新たな道を探りましたが,残念ながら見つけることはできませんでした。
 
 さらに,『後鳥羽上皇熊野御幸記』建仁元年(1201)10月15日条には,「次発心門,午時許著発心門」と見えます。
 定家は,この門の巽角の柱に,「慧日光前懺罪根,大悲道上発心門,南山月下結縁力,西刹雲中予旅魂」という漢詩を書き付けたようです。いつの時代にも,有名・無名を問わず落書きする者はいたようですね・・・・。定家よ,お前もか,といったところでしょうか(笑)。
 
 発心門の鳥居は,『源平盛衰記』によると,鎌倉時代に浄土信仰の九品信仰の上品上生に擬定されていたため,『一遍聖絵』では「こころのとざしをひら」かれたとか,明空著『宴曲抄』では「発心の門ときけば,人よりいとどにごりなく」などとその心が開かれていく様が的確に書かれています。
 
 また,正中3年(1326)の『熊野縁起』(仁和寺蔵)には,「発心門 五体王子祓」と書かれています。「発心門王子社」は熊野九十九王子中,五体王子として「藤白王子社」や「瀧尻王子社」とともに特別な扱いを受けていたようです。

 しかし,後世退転しましたが,やはり享保7年(1723)にその跡地に紀州藩徳川宗直が寄進した緑泥片岩製の石碑が建てられ,さらに享保年間(1716~1736)に再建された上で,熊野本宮大社末社になったようです(『紀伊風土記』)。