廊之坊重盛の慰霊碑

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 今日,天気が良くなってきたので,午後,前々から考えていた那智山廊之坊の重盛(天正九年〈一五八一〉死去)の最期の地を見に行って来ようと思い立ちました。

 早速,廊之坊の子孫である那智勝浦町の汐崎光氏と連絡を取り,その場所(『廊之坊・神光坊由緒覚』では「湯河村梅木が原」とある)を聞き出し出かけました。
 串本回りの海岸線沿いの国道を行くか,本宮回りの国道を行くか迷いましたが,結局,海岸線沿いの国道42号線を行くことにしました。
 途中,汐崎光氏と落ち合い湯河トンネルの手前を左折し,北上しました。
 結局,M町から2時間20分かかりました。

 でも,行って良かったです。細い道の突き当たり,工場のような建物の背後にある,少し山に登りかけた寂しい所で「廊之坊重盛の慰霊碑」を見つけました。
 最初の写真がそれです。この慰霊碑・供養塔(百年忌供養塔かな??)はどうやら江戸時代にその子孫によってつくられたもののようです。
 とりあえず,正面と左側側面に書かれた文字の中で肉眼で読めた文字だけ書いておきます。年号は風化が激しく残念ながら読めませんでした。碑に刻まれた人物らが文書に出てくる年代から考えて,重盛死後数十年経った一七世紀後半以降の碑文だと推定されます。

〔正面〕
         〔      〕坊那智執行
  【梵字】  大〔      〕法印菩提
         〔      〕卯月

〔左側側面〕
          廊之坊當住持台宗大阿闍梨執行□□法印円相
           □□塩﨑□□坊重元  塩﨑十郎兵衛
  建立施□人數   塩﨑□□□□□  中之坊清賢
              真覚坊重賢
              神光坊重惠

 ご承知のように,天正九年(一五八一),廊之坊重盛は新宮の堀内氏善・実報院道勢の連合軍と戦って敗れ,川関村の清水浄厳坊等の追討を受けましたが,湯河村の梅木ケ原に潜んでいたところを地元住民に密告され四月(卯月)晦日に戦死したといわれています(『廊之坊・神光坊由緒覚』)。
 汐崎家は,碑文からみて,この当時,俗姓を「塩﨑」家と表記したことがわかります。廊之坊円相(俗姓塩﨑,一七世紀後半に活躍した人物)と神光坊(俗姓塩﨑)重惠は共に重盛の曽孫に当るとされている人物です。

 町文化財審議委員である汐崎氏に,この慰霊碑を町文化財に指定してもらうことを勧め,その保存と立札の設置を勧めておきました。

 2つ目の写真は,背後に廊之坊や神光坊の居城・勝山城をひかえた濱の宮の大神社本殿の写真です。廊之坊や神光坊の江戸時代の墓のある地域の共同墓地を調べた後,最後に大神社本殿に参詣しました。1月にここに詣でるのは初めての経験です。