汐崎光氏蔵の『廊之坊・神光坊由緒覚』雑感

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 和歌山県那智勝浦町にお住まいで那智山廊之坊のご子孫である汐崎光氏所蔵の『廊之坊・神光坊由緒覚』を初めて読んでみて,私がかつて拙著所収の論文で推定して勝手に作成した仮想系図がほぼ当っていたことに,我ながら驚きました。

 私はあくまでも『熊野那智大社文書』所収の「潮崎稜威主文書」を丹念に読んで,登場人物を時代別にわけて一六世紀の廊之坊家の系図を作成しただけだったのですが,『廊之坊・神光坊由緒覚』の作成者の考えとほぼぴったりと合いました。

【仮想の系図
 重源-重綱-重儀-重盛-重伝-重銑
      重純
【現実の系図
 浜之宮勝山城主廊之坊
 重源-重純-重儀-重盛-重伝-円智-円相-円仙-重泰=重需=重英-
     重綱           重友-重昌-円相
 この廊之坊重盛の二男重友は神光坊(重宣)の養子になる。後に廊之坊円智の養子になる円相は重友の二男重昌(重勝)の子。重英は大蔵坊弘賢子。ということは,この三坊は複雑に結ばれ合った親戚関係にあったということになる。この系図は,一六世紀から一八世紀にかけての系図

 神光坊の系図については,この『廊之坊・神光坊由緒覚』で初めて知りました。一六世紀どころか,一五世紀からの系図がこれで明確にされたわけです。

【現実の系図
 勝山二之丸神光坊
 重秀-重由-重賢-重幹-重玄-重詠-重宣=重友-重俊-重恵-

 それから,この『廊之坊・神光坊由緒覚』には,天正九年(一五八一)に堀内氏善・実報院道勢の連合軍と戦って四月晦日に戦死した廊之坊重盛の湯河の墓所についても書かれています。やはり,一度墓所を訪ね石造物などの調査をする必要性がありそうです。