『熊野那智大社文書』を使う際の注意。その一例。

 近年,熊野三山を研究する上で特に重要な史料として注目されているのが,『熊野那智大社文書』(続群書類従完成会)である。しかし,それを利用するに当っては,単純にその史料を解読するだけで事実を論じるのではなく,その史料の集積状況をも考慮した解釈が必要となる場合がある。たとえば,次のような事例がそれに当る。

 文明四年(一四七二)二月二四日付の「旦那配分状」(『熊野那智大社文書』四巻所収「潮崎稜威主文書」68号)に,文書の宛先人及び相論当事者として「城坊主」・「川関之城坊主」が登場する。

(端裏書)
「伊予道者 長覚坊・城坊主はい分状」
伊予国旦那相ろん候処ニ,口入人として両所へはい分申候,彼在所者,実報寺を長覚坊へ永代渡申処実正也,其外伊予国之先達之事者,川関之城坊主の知行ニてあるべく候,於以後違乱之儀不可有候,仍而定状如件,
                           左藤山城守
    文明四年二月廿四日             生馬
                                 和泉守
                              橋爪良済(花押)

 この「潮崎稜威主文書」は,最近,汐崎光氏宅でその原本が発見されたことにより「那智山廊之坊文書」とよぶべきであるとの提案がなされている(和歌山県立博物館刊『熊野・那智山の歴史と文化―那智大滝と信仰のかたち―』)が,もっともな提案である。しかし,この文書群の中には文書集積状況の特徴から考えて,作成当初,「廊之坊」とは何ら関係のなかった文書が含まれていることを常に頭の中に入れておくべきであろう。

 つまり,この「旦那配分状」は,二つ後の番号で記録されている文明四年一〇月一〇日付の「道者売券」(『熊野那智大社文書』四巻所収「潮崎稜威主文書」70号)の存在を考えると,これはあくまでも「道者売券」に添えられて伝達されたものと考えるべきで,文書作成当初,後に文書所有者となった「廊之坊」とは何ら関係のない文書であったと考えるべきであろう。

本銭返し売渡道者事
  合代銭拾貫文者,
右件旦那者,伊予国実報寺之先達門弟引旦那一円ニ,水のゑ辰年より来卯年まて十二年をかきりニ,本銭返し拾貫文ニ売渡し申候事実正也,若天下一同の徳勢行候共,此旦那ニおき候てハ,一言之子細申ましく候,仍状如件,
    文明四年十月十日                     売主長覚坊(花押)

 となると,この「旦那配分状」は本来,『熊野・那智山の歴史と文化―那智大滝と信仰のかたち―』235頁で書かれているような「廊之坊」に当てられたものではなく,あくまでも「長覚坊」に当てられたものと考えるべきであり,当然,「川関之城坊主」に対しても同じ内容の文書(未見)が当てられたと見るべきであろう。つまり,この「旦那配分状」に関する限り,その内容は「廊之坊」とは直接関係のない文書であったと見做すべきであろう。

 もしこの推定が正しければ,「長覚坊」と旦那の帰属を巡って相論していた「川関之城坊主」とは,後世において,対岸の浜宮・勝山城主であった「廊之坊」当主と敵対することになる,川関・藤倉城主の「実報院」当主(当時,那智執行であった道湛が当主か)をさしていた,と見做すべきであろう。

 また,「旦那配分状」において「口入人」(仲介人)とされた「橋爪良済」は,あるいは公的文書管掌に携わる那智山の「在庁」であったと考えるべきかもしれない。しかし,これはあくまでも推定であるが・・・・。