新発見の熊野本宮関係文書と敷屋庄の御師 (はじめに)

新発見の熊野本宮関係文書と敷屋庄の御師
   
   はじめに・・敷屋庄の御師達・・

 弘安元年(一二七八)一〇月付けの「敷屋庄司兼能・御本預光俊寄進状」(『西福寺文書』1号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉,史料一①)に,寄進者として「敷屋庄司兼能・御本預光俊」のことが記載されている。
 敷屋庄司氏・御本預らが土地を寄進した西福寺は,仁和寺宝蓮院領西椒庄内にあった寺院で,現在は和歌山県有田市初島町浜脇本に薬師堂一宇だけが残され,その往時を偲ばせている。敷屋庄司氏(本姓は紀氏)は有田郡の紀氏と同族のようで,熊野地方に移住し敷屋庄司になった後もこの西椒庄内に何らかの地権を有していたと思われる。
 敷屋庄司氏は,敷屋庄の開発者(在地領主)であったが,敷屋庄を熊野本宮に寄進した後,この庄園の庄司におさまったものと思われる。「御本預光俊」についてふれると,「御本」とは,新宮市の地名で,光俊が「御本」の預職を有していることを示している。これを『和歌山県史 中世史料二』のように,「本預光俊」と読むのは誤りである。「御本」については『中右記』天仁二年(一一〇九)一〇月二九日条に「此里号御妹云々,是熊野御領所」と出て来るのが初見であるが,興国七年(一三四九)八月一三日付けの「愛洲憲俊譲状」(『大日本史料』六-一〇)に「みもとの名田」,応永一七年(一四一〇)三月一〇日付けの「相須おう四郎左衛門畠地売渡状」(「中原家文書」一号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に「みもとのあいすのおう四郎三へもん」・「ミもとのちふ太郎」,応永二三年(一四一六)九月二七日付けの「屋敷売券」(「米良文書」一八六号〈『熊野那智大社文書』一巻所収〉)に「御本のあいす」・「あいすの八郎信重」,『熊野詣日記』応永三四年(一四二七)九月二九日条に「みもとにて御舟をととむ」,さらに文亀二年(一五〇二)卯月二〇日付けの「相須新三郎畠地売渡状」(「松本家所蔵文書」)に,売主として「しきやのあいすの新三郎殿」などの記事が散見される。「御本」は,東西敷屋から川を下った熊野川を挟む旧日足村(新宮市日足)の「相須」をも含む地域をさしていたようで,当時の敷屋庄が熊野川に沿って最大どこまで拡がっていたかが推察される。
 ところで,熊野の「御師」(御祈祷師)とは,日本各地から「先達」が引率してくる「檀那」とよばれる道者を熊野三山(熊野本宮・熊野新宮・熊野那智)で受け入れ,祈祷・宿泊・山内案内などの世話をする人々をさすが,僧侶・神官・山伏・俗人など様々な立場の人達がその職に就いていた。
 アメリカのクリーブランド美術館所蔵の「熊野曼荼羅」(鎌倉時代)に,熊野本宮の証誠殿(家津御子神阿弥陀如来〉を奉祀する社殿)の前で先達,檀那である武士六人と女性一人を従えて経を唱える素絹・白衣に袈裟をまとった僧侶の後姿が描かれているが,これが鎌倉時代の本宮の御師である。御師は幣を神前に奉り,さらに願文を読み上げてこれを神前におさめたようである。また,作法通り妙覚門から竹にさした幣を捧げ持つ先達ら三人を社内に先導する白衣の僧侶もまた御師であろう。アメリカのフリア美術館所蔵の「熊野宮曼荼羅」(鎌倉時代)にも,やはり御師の姿が描かれている。
 さらに,余談ながら,有名な『一遍上人絵伝』(清浄光寺歓喜光寺所蔵,正安元年〈一二九九〉) に,熊野本宮の結神〈観音菩薩〉及び速玉神薬師如来〉を奉祀する社殿の前で先達,檀那である武士三人と女性三人を従えて経を唱え幣と願文を捧げる素絹・白衣に袈裟をまとった僧侶(御師)の後姿が描かれているが,想像を逞しくすれば,この御師熊野別当家の一員か,あるいは熊野別当本人をさしていると見ても差し支えなかろう。
 なお,今回発見された熊野本宮関係文書は,敷屋庄の御師家の中ではあまり知られていなかった見座氏に関するもので,ここではその中の三点だけを活字化して紹介する。