熊野「鳥居禅尼」略伝

熊野「鳥居禅尼」略伝  

 「鳥居禅尼」は,源為義の娘で,源義朝(1112~1160)の姉に当る(『吾妻鏡』建久5年〈1194〉9月23日条)とも、妹に当るとも言われている女性である。。鎌倉幕府の初代将軍頼朝の伯母でもある(『吾妻鏡』貞応元年(1222)4月27日条)。なお,源平の乱の際に反平氏をよびかける以仁王令旨を諸国の源氏に伝え歩いた源行家(実名・義盛)は同母弟にあたる。

 1140年代前半,新宮鳥居在庁・常住社僧として熊野速玉大社の社僧及び神官などを束ねていた新宮別当家の行範(16代熊野別当長範〈1089~1141〉の嫡男)に嫁し,「たつたはらの女房」とよばれた(『延慶本平家物語』)。「たつたはらの女房」は,1140年代中頃から,範誉,行快(1146~1202),範命(1148~1208),行遍,行詮,行増らと数人の女子を次々ともうけた(「熊野別当代々次第」,「熊野別当系図」)。

 1173年,18代熊野別当湛快(1099~1174)の引退後,19代熊野別当に就任した夫行範はわずか1年で死去した。「たつたはらの女房」は夫行範の死後,すぐさま剃髪して「鳥居禅尼」と名乗り,菩提寺東仙寺(旧新宮城すなわち城山付近にあったといわれるが,現在,そこには「鳥居禅尼」の祈念仏といわれる阿弥陀如来仏・薬師如来仏などがまつられている)に入り,夫行範の菩提を弔いつつ,そのかたわら,後家として一家の要の位置に座り,那智の有力社家に養子に入り後に那智執行となった範誉を筆頭に弓の名手として伊勢野海賊から恐れられ(『古今著聞集』),後に22代熊野別当に就任した行快,さらにはその跡を受けて23代熊野別当になった範命,『新古今和歌集』の歌人「法橋行遍」として有名になった行遍,後に権別当として活躍した行詮,同じく権別当になった行増などを育て上げた。

 「鳥居禅尼」(「熊野尼上」)は,源平の乱後,数々の功績によって,甥に当たる将軍頼朝から紀伊国佐野庄(現和歌山県新宮市佐野),紀伊国湯橋(『吾妻鏡』建久元年〈1190〉4月19日条,現和歌山市岩橋),但馬国多々良岐庄(『吾妻鏡』建久5年〈1194〉閏8月12日条・9月23日条,現兵庫県朝来町多々良木)などの地頭に任命され,鎌倉幕府御家人になった。

 承元4年(1210),幕府は「熊野鳥居禅尼」の願いをいれ,これらすべての知行地の地頭職を養子に譲補することを認めた(『吾妻鏡』承元4年〈1210〉9月14日条)。養子の名前はわからないが,国史大系本の『吾妻鏡』貞応元年(1222)4月27日条から考えて,行詮の子の行忠(僧位は法橋)か長詮(僧位は法橋)が養子とされたと推定される。

 こうして,新宮別当家は,鎌倉将軍家の一族として手厚く遇され,熊野三山内外にその勢力を伸ばしていった。「鳥居禅尼」は,女性なので当然,別当にはなれなかったが,熊野三山統轄機構の中枢部にいた夫の行範や,義理の弟で20代熊野別当になった範智,さらには娘婿の湛増(湛増を「鳥居禅尼」の実子と見る学者もいるが,これは史料操作ミスによる明らかな間違いで,『延慶本平家物語』源氏勢付事には「熊野別当湛増ハ鎌倉兵衛佐〈源頼朝〉ノ外戚ノ姨母聟ニテ」とある),さらには子や内孫・外孫を通じてその影響力を大いに発揮し,1210 年頃,かなりの高齢で死去したようである。