和歌山県白浜町観福寺の2世住持覚元について №①

                                                                                      和歌山県白浜町観福寺の2世住持覚元について №①                                                                              鎌倉時代後期の禅僧で、和歌山県白浜町富田高井にある臨済宗の観福寺の第2世住持でもあった覚元禅師(生年不詳〜1326)の事跡について、『白浜町誌』などで既に知られた事実以外に由良興国寺とのはっきりした繋がりを物語る新しい事実が明らかになりましたので、ここでそれについて簡単に紹介してみましよう。
 
正安4年(1302)8月15日付けの「六波羅探題下知状」(観福寺蔵)に、「富田観福住持覚元」が鎌倉幕府へ訴え出た守護・地頭・御家人並びに甲乙人らの濫妨狼藉について理非を明らかにすることを命じたこと、が記載されています(楠本慎平「観福寺所蔵の六波羅探題御教書について」は『田辺文化財』8号に初めて掲載されましたが、後に『白浜町誌』資料編<1980>に参考資料として収載されました)。
 
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全文をあげると次の通りです。
 
 紀伊国富田観福住持覚元申、守護地頭御家人并甲乙人等濫妨狼籍事
 右任去七月十二日関東御下知、可致沙汰之状如件
  正安四年八月十五日
左馬助 平朝臣 (花押)
中務大輔平朝臣 (花押)
 
 鎌倉幕府の、京都における出先機関である六波羅探題の南北両探題のうち、北探題であった左馬助平朝臣とは北条左馬助基時をさし、南探題であった中務大輔平朝臣とは金沢(北条)中務大輔貞顕のことをさしています(貞顕の花押については若い時と歳を取ってからとではその形態にやや違いが見られます。しかし、金沢文庫の永井晋氏によりますと、これは貞顕の若い時の花押で間違いないそうです。ご教示ありがとうございました)。
 
「富田観福住持覚元」とは、由良庄の西方寺(興国禅寺)の開祖・無本心地覚心(法燈国師、1207〜1298)の弟子であったと伝承される覚元禅師のことです。
 
観福禅寺の創立については、20代目熊野別当範智の子孫にあたると伝承されている「吉田範盛」によって建立された(「吉田氏系図」<『白浜町誌』資料編に所収>)とか、範智の子もしくは弟にあたる「範秀」(中岩氏租)によって草創され覚心が「観福精舎」の開山とされた(「中岩氏系図」<『続群書類従』六下に所収>)とか、地元にいくつかの草創伝承があります。また、覚元禅師が観福寺の第2世であったという伝承もあります(「中岩氏系図)。あまり傍証にはならないと思いますが、観福寺開山堂には、かなり後世のものと思われます覚元禅師坐像が法燈国師坐像とともに安置されています。
 
閑話休題】この論文を書いた1988年に、家族と共に今は亡き私の母親  を連れて、沖縄・与論島の旅へ行って来ました。論文の内容と関係ありま  せんが、有名な「守禮之門」の写真を記念に載せておきます。
 
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