熊野の国の元の領域とは??

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 今日、白浜へ墓参りに行って来ました。途中、田辺市芳養川畔で紅梅を見掛けました(1枚目の写真)。白梅ばかり咲いている中で、たった一本しかない紅梅が目立っていました。

 ようやく、頼まれ原稿を1つ書き上げました。

 大化の改新(7世紀中頃)以前、紀伊半島南部に「熊野国」と呼ばれた国がありました。

 ところが、大化の改新以後の一連の建郡政策の中で、「熊野国」は、政治的に大和政権の影響の強い田辺地域を中心とした「牟婁郷」と1つになり、「紀伊国」の7郡の1郡として『和名類聚抄』流布本にあげられた岡田、牟婁、栗栖、三前の4郷、もしくは『和名類聚抄』高山寺本にあげられた岡田、牟婁、栗栖、三前、神戸の5郷から構成される「牟婁郡」(その郡域は、牟婁郡の範囲は、漠然と現在の和歌山県田辺市西牟婁郡東牟婁郡新宮市三重県南牟婁郡・熊野市・尾鷲市北牟婁郡から紀伊長島町を除外した範囲)として成立した、と長い間考えてられていました(阪本敏行「牟婁牟婁郷に関する一考察」〈『田辺文化財』21号所収、1978〉、阪本敏行「律令制下の牟婁」〈『田辺―ふるさと再見―』所収、あおい書店、1980〉、阪本敏行「三栖廃寺に関する一試論」〈『和歌山地方史研究』4号所収、1982〉、阪本敏行「村君安麻呂の勘籍をめぐる諸問題」〈『くちくまの』6号所収、紀南文化財研究会、1982〉などを参照)。

 これに対し、近年、古代の「牟婁郡」は、『紀伊風土記』などが語るように、孝徳天皇(当時は大王と尊称された)の時代に国郡を分かつ際、それまであった「熊野国」を廃して新たに牟婁の地を加えて一郡とし、本国に隷し「牟婁郡」と名づけて、岡田、牟婁、栗栖、三前の4郷に分けたのではなく、「熊野国」と「牟婁郡」の領域については当初からほとんど異同なく、令制下の「紀伊国」は、単純に紀伊国造が支配する「紀伊国」と熊野国造が支配する「熊野国」が合体しただけに過ぎなかった、と主張する説も出されています(寺西貞弘「神話から歴史へ」〈『田辺市史』第1巻・通史編Ⅰ所収、2003〉、寺西貞弘「熊野と牟婁」〈『古代熊野の史的研究』所収、塙書房、2004〉)。

 さあ、どちらの説が正しいのでしょうね。
 しかし、この問題に結論を出すためには、もう少し考古学的知見などにもとづく事実の集積が必要でしょう。
 今後の研究に期待したいと思います(笑)。