「有間皇子墓」と推定されている岩内1号墳

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 先日,「河内飛鳥」で見学した「孝徳陵古墳」の埋葬者・孝徳大王(天皇と公称するようになったのは天武天皇以後)の長男であった「有間皇子(ありまのみこ)」の墓と推定されている古墳が和歌山県御坊市内にあったことを思い出しましたので,御坊に所用で行ったついでに写真を撮って来ました。

 古墳の正式の名前は「岩内(いわうち)1号墳」といい,通称「みこ塚古墳」とよばれています。

 古墳の形態は方墳(一辺が20m)です。横穴式石室ですが,中に漆棺が置かれてあったようで,貴人をうかがわせる銀線巻きの太刀が埋納されていたことが判明していることや棺が漆塗りの棺であること,さらにこの古墳が7世紀中頃の終末期の方墳であるところからこのように推定されています(同志社大学名誉教授・森浩一氏説)。

 では,当時の大王や中大兄皇子の陰謀により現海南市の藤代で処刑されたといわれている有間皇子の墓がなぜここにあるのかというと,実は岩内1号墳のある塩屋の岩内地域は,有間皇子を支持していた有力官人の「塩屋連鯯魚(しおやのむらじこのしろ)」一族の勢力圏であった所から,ここに埋葬されたといわれています。

 旧南部町にある岩代の結松(処刑された場所を「藤代」ではなく,「岩代」と考える説もあります)とも関連し,白浜温泉を世に知らしめた恩人とされている悲劇の皇子・有間皇子の墓がこんな所にぽつんと置かれていることに涙しますとともに,塩屋連の奥津城で彼等に守られて眠っていることをむしろ喜びたいと思います。