2月7日の夕方,やはり駆け足で,太地のくじらの博物館→大泰寺→下里古墳へ

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 太地の人々は近代になり,南氷洋や北洋で捕鯨に活躍しました。

 昭和44年(1969),森浦湾に面した地を埋め立ててつくった「くじら浜公園」が建設されました。ここから見える勝浦方面の景色(1枚目・2枚目のの写真)は殊のほか素晴らしいですね。

 くじらの博物館(3枚目の写真)では,そんな古式捕鯨や近代式捕鯨の歴史などについて詳しく知ることができます。
 なお,捕鯨船資料館(4枚目の写真)では,南極海で活躍した近代式捕鯨の資料を展示しています。

 那智勝浦町下和田にある大泰寺(臨済宗妙心寺派)は,元来,天台宗の寺院でしたが,室町時代中期に禅宗の寺院に改宗したようです。
 参道の脇には永和5年(1379)に造営された板碑(5枚目の写真)があります。この板碑は,自然石の形態を残しており,県史跡に指定されています。
 大泰寺の薬師堂(6枚目の写真,町指定文化財)は,入母屋造・瓦葺きの建物です。建立年代を示す史料はありませんが,建築様式から見て室町時代中期に建立されたと考えられています。どちらかというと,禅宗様式の強い中世の仏堂です。このお堂には,本尊である薬師如来坐像(平安時代後期の保元元年(1156)に制作された重要文化財阿弥陀如来坐像)と,その脇侍仏である日光菩薩立像・月光菩薩立像が祀られています。

 那智勝浦町のJR下里駅近くに国史跡・下里古墳(7枚目の写真)があります。下里古墳は,すでに前方部が削り取られていたため,当初,円墳と考えられてきましたが,昭和47年(1972)の発掘調査により,4世紀後半に造営された全長40mの柄鏡形の前方後円墳であることが明らかになりました。しかも,墳丘の周りに濠が巡らされ,墳丘の表面は葺石で覆われていたことが判明しています。
 後円部の高さは約7mで,そこに割石積みの竪穴式石室が造られています。副葬ははっきりしていませんが,かつて石室から鏡や剣,大型管玉・管玉・小玉そして碧玉製の玉杖(首長権の象徴)が発見されているといわれています。
 和歌山県の初期前方後円墳(5基)としては唯一というべき本格的なものです。この前方後円墳には,大田川流域の穀倉地帯を背景にしたこの地域の首長を埋葬したか,海上交易を掌握した首長を埋葬した,と推定されている。
 なお,埋葬された人物としては,神話上・伝説上の人物である丹敷戸畔や高倉下命,大阿斗足尼などをあげる研究者もいます。

 周参見付近で太陽が沈みかけていましたので,タイミングよく写真(8枚目の写真)を撮ることができました。前の島,まるで涅槃仏みたいでしょう。

 これで車で忙しく動き回った,この日もやっと終りました。