白浜町(旧日置川町)出身の蘭方医・小山肆成顕彰会について

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 つい先日,白浜町(旧日置川町)出身の蘭方医・小山肆成(こやましせい)顕彰会が結成されました。

 小山肆成に関して,私達が共同執筆した『新版和歌山県の歴史散歩』(新全国歴史散歩シリーズ,山川出版社,1993)には,「小山肆成は若くして京都に遊学し,医術を高階枳園に学んだ。師の「引痘略」という中国の書物でジェンナーの種痘法の原理を知り,翻訳した。さらに『引痘新法全書』2巻を著わし,種痘法の普及をはかるとともに臨床実験を重ね,ついに牛の血からつくったワクチンが有効であることを1849(嘉永2)年に突き止めた」と書かれています。

 なお,白浜町が2008年に発行した『日本人で初めて天然痘撲滅のための牛痘種痘法を確立した 蓬州 小山肆成』には,小山肆成は『引痘新法全書』著作以降に牛痘法による国産ワクチン接種に日本人として初めて成功した人物である,と書かれています。

 しかし,日本洋学史の専門家の1人である浅井允晶氏は「モーニッケ苗受容の前提――」(有坂隆道・浅井允晶編『論集 日本の洋学Ⅰ』)において,「天然痘(痘瘡)に対して安全に,しかも強い免疫をあたえる牛痘種痘法・・・・が本格的にわが国に定着したのは,・・・・嘉永二年(一八四九)夏のことであった。もとより,わが国における牛痘法の実施については,これよりさき,ロシアに捕らえられた中川五郎治がこの種痘法を習得して帰国し,文政七年(一八二四)から蝦夷地でそれを実施したことなどが知られている。しかし,これは飽くまで局地的な域にとどまり,全国的に波及するまでには至らなかった。ところで,嘉永二年に,この西洋伝来の新しい予防法が改めて根づいたのは,・・・・長崎のオランダ商館医モーニッケがバタビアから取り寄せた痘痂が善感したのを契機とする」としており,小山肆成の業績については,『引痘新法全書』を弘化4年(1847)に校刊したことにあり,その普及に多大の影響を与えた,とのみ書くにとどめています。

 地元の人々の評価と専門家の評価にはかなりの差があるみたいで,別の専門家はノーコメントということですが,必ずしも小山肆成を牛痘法による国産ワクチンの接種に初めて成功した日本人,とは見なしていないようです。

 さて,これはいったい何を物語っているんでしょうか。
 地元でもしっかり検討してもらいたいと思います。