日本山岳修験学会からの帰途 №③-A 上杉謙信銅像から春日山城本丸まで
新潟県上越市中屋敷に国史跡の春日山城があります。春日山は,標高180m,鉢ケ峰ともよばれています。
春日山城は,南北朝時代(1336~1392)には築城されていたといわれています。そして,戦国時代には,上杉謙信の父長尾為景,兄長尾晴景をへて上杉謙信,上杉景勝が越後支配の中心として春日山城を利用していたようです。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命令で上杉景勝が会津城に移ると,かわって堀秀治が春日山城に入りました。
しかし,慶長12年(1607)に堀忠俊が福島城に本城を移したため,春日山城は廃城になりました。
春日山城は東西約2㎞,南北約1.3㎞にひろがる巨大な山城です。幸いなことに,その遺構は,比較的よく残っています。来年のNHKの大河ドラマ『天地人』の主舞台の1つとして登場するかと思われますので,これからその遺構の数々を紹介していきます。
1枚目の写真。紅葉につつまれた「上杉謙信銅像」です。この左下の道を上へ登って行きます。
2枚目の写真。3の丸に向かう曲がりくねった山道です。
3枚目の写真。3の丸です。当時は3の曲輪(くるわ)と呼ばれていました。上杉謙信の時代,ここに謙信が自分の名前の一部を与えて住まわせた養子の三郎景虎(小田原城主・北条氏康子)の屋敷がありました。景虎は,謙信の死後,その跡目をめぐって起こった御館の乱で非業の死を遂げてしまいました。
4枚目の写真。ここは「米蔵跡」と呼ばれている所で,城機能の中核的部分が置かれた所です。ここにはもっとも良い状態で何ヶ所かに防御のための「土塁」が残されています。
5枚目の写真。樹木や草に覆われていますが,敵勢を食い止めるための「堀切」です。
6枚目の写真。2の丸です。当時は2の曲輪と呼ばれており,実城と呼ばれる本丸を中心とした曲輪群の東裾を取り巻くように造られた曲輪で,本丸の直下にあって帯状に本丸警護のための中心的役割を果たしていたようです。現在も笹井戸と呼ばれる井戸跡が残っているそうです。
7枚目の写真。本丸です。
8枚目の写真。天守台跡です(当初の写真が間違っていましたので,おくればせながら正しい写真を載せておきます)。特別な石垣のようなものはありませんでした。
9枚目の写真。本丸から北東に直江津・日本海をはっきりと見ることができました。
10枚目の写真。南側に山々が見えます。
春日山城は,南北朝時代(1336~1392)には築城されていたといわれています。そして,戦国時代には,上杉謙信の父長尾為景,兄長尾晴景をへて上杉謙信,上杉景勝が越後支配の中心として春日山城を利用していたようです。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命令で上杉景勝が会津城に移ると,かわって堀秀治が春日山城に入りました。
しかし,慶長12年(1607)に堀忠俊が福島城に本城を移したため,春日山城は廃城になりました。
春日山城は東西約2㎞,南北約1.3㎞にひろがる巨大な山城です。幸いなことに,その遺構は,比較的よく残っています。来年のNHKの大河ドラマ『天地人』の主舞台の1つとして登場するかと思われますので,これからその遺構の数々を紹介していきます。
1枚目の写真。紅葉につつまれた「上杉謙信銅像」です。この左下の道を上へ登って行きます。
2枚目の写真。3の丸に向かう曲がりくねった山道です。
3枚目の写真。3の丸です。当時は3の曲輪(くるわ)と呼ばれていました。上杉謙信の時代,ここに謙信が自分の名前の一部を与えて住まわせた養子の三郎景虎(小田原城主・北条氏康子)の屋敷がありました。景虎は,謙信の死後,その跡目をめぐって起こった御館の乱で非業の死を遂げてしまいました。
4枚目の写真。ここは「米蔵跡」と呼ばれている所で,城機能の中核的部分が置かれた所です。ここにはもっとも良い状態で何ヶ所かに防御のための「土塁」が残されています。
5枚目の写真。樹木や草に覆われていますが,敵勢を食い止めるための「堀切」です。
6枚目の写真。2の丸です。当時は2の曲輪と呼ばれており,実城と呼ばれる本丸を中心とした曲輪群の東裾を取り巻くように造られた曲輪で,本丸の直下にあって帯状に本丸警護のための中心的役割を果たしていたようです。現在も笹井戸と呼ばれる井戸跡が残っているそうです。
7枚目の写真。本丸です。
8枚目の写真。天守台跡です(当初の写真が間違っていましたので,おくればせながら正しい写真を載せておきます)。特別な石垣のようなものはありませんでした。
9枚目の写真。本丸から北東に直江津・日本海をはっきりと見ることができました。
10枚目の写真。南側に山々が見えます。