大阪府羽曳野市にある野中寺を参詣

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 以前,S大学准教授のM氏にお会いしに行った帰り道,序でに葛井寺及び辛国神社に立ち寄ったことを話しました。

 実は最初に立ち寄った所は,羽曳野市にある野中寺(やちゅうじ)で,その後でバスに乗って葛井寺に向かいました。野中寺まではМ氏にわざわざ自動車で送って頂き,恐縮しました。

 野中寺(高野山真言宗)は,聖徳太子ゆかりの寺との説もあるようですが,一般的に朝鮮半島百済出身の船史王後が創建した氏寺と考えられています。南北朝時代にいったん,戦争で焼失したようです。しかし,江戸時代前期の寛文元年(1661)に再建され,享保年間に真言律宗の僧侶の養成機関として僧房も増やされ繁栄したようです。

 1枚目の写真。最近再建された山門の写真です。

 2枚目の写真。これは白鳳時代(7世紀後半期)に左側に建造された三重塔(3間×3間)の塔心礎と礎石の写真です。
 なお,右側には旧金堂跡(5間×4間)があります。白鳳時代の野中寺は,法隆寺式伽藍配置の寺院だったようです。

 3枚目の写真。塔心礎の拡大写真です。3基の支柱孔と1基の舎利孔をもつ極めて珍しい形式の塔心礎です。

 4枚目の写真。本堂の写真です。かつての旧講堂跡に建造されています。

 5枚目の写真。寺宝の「丙寅年」(天智5年に比定)の造像銘をもつ白鳳時代(7世紀後半)の「弥勒菩薩半跏像」(国指定重要文化財)の写真です。飛鳥の橘寺の知識たちが「中宮天皇」が病いにかかった時にこの「弥勒御像」を発願・制作したとの記載もあります。この写真は,久野健『仏像の歴史-飛鳥時代から江戸時代まで-』(山川出版社)より掲載させていただきました。

 6枚目の写真。国指定重要文化財地蔵菩薩像(鎌倉時代制作)を安置する地蔵堂の写真です。

 7枚目の写真。寺の墓地の中にお染・久松の墓がありました。近松門左衛門の作品に出てくるお染・久松(「野崎小唄」)の話はよく知られていますが,私が持っていたガイド・ブックには何も書かれていなかったので少し驚きました。