熊野速玉(新宮)大社とその宝物

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 熊野速玉(新宮)大社の社殿は,明治16年(1883)に火災によってすべてを焼失しました。そのため,昭和28年(1953)に再建された際に社殿構成が大きく改変され,第2殿(速玉宮)が左端に置かれると共に,第1殿(結宮)・第3殿(証誠殿)・第4殿(若宮)が相殿に,さらに第5殿~第8殿も相殿にされ,第9殿~第12殿もまた相殿にされました。しかし,近年,第1殿が左端に再建されました。
 これらの改変により,1枚目の写真に見られる現在の熊野速玉大社の社殿は,今でも文化財に指定されていません。

 なお,参考までに,2枚目の写真としてアメリカのクリーブランド美術館所蔵の鎌倉時代制作の『熊野曼荼羅』の中から,当時の熊野速玉大社だけを選んでかかげておきますので,現在のそれと比較してください。これを見ますと,本来の熊野速玉大社の社殿は,熊野本宮大社の社殿を真似て造営されたと考えることができるとされています(小山靖憲氏説)。
 もっとも,同じ鎌倉時代のそれを描きながら『一遍上人絵伝』の第5殿~第8殿と第9殿~第12殿は平行に建てられていますが,クリーブランド美術館所蔵の『熊野曼荼羅』の第9殿~第12殿は,第5殿~第8殿と直角に交差するように建てられています。これには,徳治2年(1307)の火災による炎上が関係していると推察されますが,今の所,謎としか言いようがありません。

 ところで,第1殿の祭神(女神)である国宝の熊野夫須美大神坐像は,福よかで艶やかな面相,頭の上で高く結った髷,両肩と背中に長く垂らした髪の毛をもっています。女神像の身体つきは豊満で,左膝を立てて坐り,立てた膝の上で重心をやや左に写しつつ,両手を袖の中に入れたまま静かに坐しています。女神像の制作時期は,9世紀末から10世紀初めとみられていたこともあったようですが,大河内氏によりますと,9世紀後半まで遡らせて考えることができるようです。

 3枚目の写真にかかげた第2殿の祭神(男神)である国宝の熊野速玉大神坐像は,宝冠をいただいた神像で一見したところ,氏神としての威厳を漂わせながらも,氏人を包みこんでくれるような優しさを兼ね持っているような印象を受けます。その制作時期は,女神像と同様,やはり9世紀後半まで遡らせて考えることができるようです。

 熊野速玉大社の第3殿(証誠殿)の主祭神が,家津御子大神坐像です。同じく証誠殿に祀られている国常立命坐像の制作時期は,熊野速玉大神坐像・夫須美大神坐像などと同様,1具として9世紀後半に制作されたと考えることができそうですが,この家津御子大神坐像はやや遅れて9世紀末期から10世紀初期に別人によって制作されたと考えられています。作風がかなり違っており,この家津御子大神坐像は,むしろ熊野本宮大社の家津御子大神坐像によく似ています。家津美御子大神坐像がいつのころか国常立命坐像を押し退けて証誠殿にもぐり込んできたような印象すら受けます。それが熊野本宮大社方面からやって来た神仏習合の流れと一致していたのかもしれません。

 熊野速玉大社の熊野神宝館には,所蔵品としておおよそ1000点もの古神宝類が収蔵され,一括して国宝に指定されています。
 これらの古神宝類の大半は,明徳元年(1390)の遷宮に際して,当時の天皇上皇・室町将軍足利義満および諸国の守護の支援のもと奉納されたものであるとされています。
 中でも,4枚目の写真にあげた南北朝時代制作の大形の彩絵檜扇10握と,桐蒔絵手箱およびその内容品,装束,さらには漆金銅装神輿,江戸時代に製作された漆金銅装神幸用船・稚児立像などが特に注目されます。
 
 なお,5枚目の写真にかかげた同所蔵の「熊野別当代々次第」をはじめとする鎌倉時代から江戸時代にかけての『熊野速玉大社古文書古記録』は当時の熊野地方の歴史を知る上で貴重なものです。

 熊野速玉大社では,現在,例大祭として毎年10月15日に神馬渡御,16日に御船祭がおこなわれています。これらの行事は,熊野速玉祭りとして県無形民俗文化財に指定されています。この他に7月14日におこなわれる扇立て祭があります。また,2月6日におこなわれる神倉神社の御燈祭には,新宮の神官をはじめ多くの行事参加者が熊野速玉大社で準備して神倉神社に向かうことになっています。

 『別冊太陽 熊野』(平凡社,2002年)より熊野速玉大社の写真を,さらに和歌山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野速玉大社の名宝-新宮の歴史とともに-』(2005)からも写真を掲載させていただきました。