鎌倉時代の熊野水軍の船の形と構造

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 かつて,阪本敏行は,『本宮町史 通史編』(2005年)所収の「熊野三山領と熊野僧供米」(138~147頁)の141頁に,紀伊国南部庄の「千里浜の沖合を往来する熊野船」と題して,『西行物語絵巻』(旧萬野本)の中から鎌倉時代後期のものと推定される帆船(準構造船)の絵を探し出して来て掲載しています(今回,この絵はここでは載せません)。

 この絵に関して,他の専門家はあまり言及していませんが,超一級の史料だと思います。ただ、この船の向かった先が港のあった南部庄の岩代か千里(目津)方面のようなので、間違いなく熊野船と断定してよいか幾分の疑問は残ります。

 ところで,よく観察してみるとこの船の形は,1枚目の図面,つまりかつて石井謙治氏が『和船Ⅱ』(法政大学出版会,1995年)で『北野天神縁起絵巻』をもとに復元した13世紀初頭の大型海船復元推定図とよく似た形をしています。

 特に,この準構造船の後方側面に「セガイ」とよばれる水手(かこ,船を漕ぐ水夫)の踏板が両面に設けられているところがそっくりです。

 石井謙治氏はこの準構造船をその「セガイ」の数から水手12人で漕ぐ250石積船(排水量からいうと450石船)と推定しています(242~243頁)。

 2枚目の写真は,『松崎天神縁起』絵巻に描かれた船の後の部分を撮ったものです。

 ところが,『西行物語絵巻』に登場する「千里浜の沖合を往来する熊野船」の場合は,後方側面に「セガイ」が両面で6つないしは8つしかありません。これらの「セガイ」の状況から推定すると,「千里浜の沖合を往来する熊野船」は,梶取(船頭)1人に水主6人の100石積船か,梶取1人に水主9人の150石積船か,ということになります。

 こうしたことから,鎌倉時代熊野水軍の大半の船は,少なくとも100石積船以上の海洋専用の帆船(準構造船)であったことが推定できます。