紀伊熊野の牛玉宝印の裏に書かれた鎌倉期の起請文

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 以前,紀伊熊野の牛玉宝印を紹介したことがありました。

 ここで,紀伊熊野と関係のある,牛玉宝印の裏に書かれた,正安元年(1299)7月日付の「大部庄下方百姓等連署起請文」(1枚目の写真)を紹介します。
 鎌倉時代の起請文の代表的な事例です,

 東大寺播磨国大部荘は,かつて兵庫県加古川中流域左岸の河岸段丘上にありました。

 この文書の内容は,東大寺側の在地の役人である公文が百姓に要求した負担に対し,百姓らがその負担には先例がないことを,大小さまざまな神仏の名をあげて宣誓しています。

 文章の最後に出て来る「熊野三所当庄王子大社」とは,現在,王子谷の段丘上にある汪塚古墳のそばに鎮座します王子熊野神社をさしています。西方にある里方の鎮守というべき存在です。

 「王子権現之由緒」(3枚目の写真)によりますと,王子熊野権現は「大部一庄之祖神」として信仰されてきたが,いつのころか紀伊熊野の人鈴木弥太夫が王子権現の祀官となり,旱魃に備えて小池(弥太夫淵)を開いたといわれています。

 出典は,京都大学文学部博物館『荘園を読む・歩く-畿内・近国の荘園-』です。