上杉和彦氏著の『戦争の日本史6 源平の争乱』

イメージ 1

 上杉和彦氏著の『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館,2007)を御紹介します。

 今までの源平争乱史研究を集大成したと思われるこの本を読むと,「源平の争乱」の本質がよく理解できます。しかも,感激したのは,これまでにないほど,わが熊野地域の果たした役割を大きく取り上げてくれていることです。

 細かく見ると,その解釈に多少の異論をおぼえる箇所もあるのですが,これほど多く熊野地域や熊野の人々(湛増など)のことが取り上げられたことに喜びをおぼえました。

 29~31頁,35頁,41~43頁,104~106頁,113~114頁,127~128頁,196頁,199頁,213頁,222頁などに登場します。全体の7%といったところでしょうか。

 ただ残念なのは,42頁で『延慶本平家物語』を根拠にして,平氏以仁王謀反の情報を伝えた人物を「大江法眼覚応」とし熊野合戦はなかったとしていることです。
 3年後の史料である「僧綱補任残欠」寿永2(1183)年条に,1181年頃に死去したと推定される「別当法印範智」(新宮別当家出身)の名前が見えないことは納得できるのですが,熊野の僧綱としてリーダーの地位にあったとされている「大江法眼覚応」の名前が「僧綱補任残欠」寿永2(1183)年条に出てこないことにやや違和感をおぼえました。
 もう,死去していたのでしょうか。

 しかも,疑問はまだあります。

 本宮勢力のリーダーとされる「大江法眼覚応」の名前に,社僧としての僧綱の位を独占していたはずの熊野別当家出身者としての通字である「長」「範」「快」「湛」「行」などの名が見られず,しかも社僧として熊野別当家出身者でないのに法眼という高い僧位を得ていることに,誰かの名前を誤り伝えて書いているのではないか,との疑問をおぼえました。

 やはり,ここは『覚一本平家物語』の如く本宮社僧のリーダーとしての権別当法眼「湛増」の存在を考えるべきではないでしょうか。

 いずれにしても,なぜ,実在しなかったと推定される人物の名前が本宮のリーダーとしてここに登場するのか,謎は深まるばかりです。