新視点からの熊野古道散歩-和高社研第4ブロック現地研修会報告-№1

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            新視点からの熊野古道散歩
             -和高社研第4ブロック現地研修会報告-№1

   はじめに

 昨年12月,和高社研第4ブロック現地研修会に講師として招かれ,話をさせていただきました。

 今回,世界遺産に指定された高原~滝尻間の熊野古道を歩き,静岡県袋井市教育委員会の山本義孝氏などが提唱している修験道考古学の立場から熊野古道や修験の行場遺跡・経塚遺跡の新しい見方について学んでいただくと共に,高校の社会科教員としての資質および授業実践力を高めていただきました。

   1,高原にて

 当日,各自昼食をすませ,田辺市中辺路町滝尻の熊野古道館(田辺市中辺路町栗栖川1222番地)に集合(写真参照)。そこからすぐに車何台かに分乗して高原に上りました。

 高原は,富田川上流の中川合流地点付近から富田川左岸にかけてのかなり高い山地にあります。高原という地名は,高い山野を切り開いてつくられたことに由来していると推定されています。

 高原という地名の初見は,平安時代後期の『中右記』天仁2年(1108)10月28日条で,熊野本宮に向かって滝尻の急坂を上った後,「次に牟婆女坂,次に高原,〈申剋〉,次に水飲仮屋に宿る」と記載されています。この記載から,熊野参詣の途中で,藤原宗忠一行が高原を通ったことが分かります。

 さらに,『吉記』承安4年(1174)9月30日条には,「雨下に依り,高原小宅に於いて飢えを補う」とあります。ここには,藤原(吉田)経房一行が雨のため高原小宅で食事をしたことが書かれています。家屋の存在は確認されますが,集落があったかどうかは不明です。 

 なお,『後鳥羽上皇熊野御幸記』建仁元年(1201)10月14日条に,途中の王子社での和歌会で,因幡守通方が「たかはらや峯よりいつる月かけは千年の松を照らすなりけり」と詠った記事が挿入されていますが,「峯月照松」の題詠に対して高原で感じた情景の印象がこの歌のもとになっているとすいていされます。

 これ以後,鎌倉時代の貴族の日記(藤原頼資・藤原経俊などの日記)に,高原についての記載はありません。高原は,あくまでも熊野三山へ向かう通過地点に過ぎなかったからでしょうか。それとも,高原には,未だこの頃,集落らしい集落がなかったからでしょうか。

 久し振りに高原が文献の上に出てくるのは,室町時代の『熊野詣日記』応永34年(1427)9月26日条と10月4日条においてです。前者には,「御宿,高原,御宿石王兵衛か家なり,畳あたらしく,さし天井しろくはりたり,かれか分際にハ,いかめしき用意なるものをや」,後者に「御宿,高原,御やとさきのことし」と記されています。名著『熊野古道』の作者・小山靖憲氏は,この記載から,高原集落の形成を南北朝時代に想定しています。

 なお,江戸時代後期の『紀伊風土記」には,高原の家数は94軒,人数は279人とあり,小名として川合,中石谷が記載されています。

 高原の集落はかなりの高所にあるためか,寛政10年(1798)の「熊野詣紀行」には「坂中也,人家多し,宿あり,十丈峠へ三十町」と記載されています。高原には,旅館もありました。熊野古道(中辺路)に沿って尾張屋,浜屋,亀屋,横屋,當屋,田中屋,鍵屋,熊野屋などの屋号の旅館が並んでいたといわれています。ここを旧旅館通りといいます。いずれも大正時代までに廃絶したとのことですが,修復された古道に沿って旅館の屋号を伝える看板が掲げられている場所もあり,往時を偲ぶことができます。メンバーの中にはちょっと立ち寄って歩き回った人もいたようです。