廊之坊重盛の供養塔に関連した史料

 瀧執行であった廊之坊重盛の供養塔(慰霊碑)に関連した史料を集めています。
 とりあえず,『熊野那智大社文書』からということで関係史料を集めました。未だ抜けているものもありますが,これをどう組み立てていくかが今後の課題です。

〔廊之坊重伝関係史料及び記述〕

①,慶長19年(1614)極月26日付け「浅野忠吉書状」(『熊野那智大社文書』3巻,米良文書1080号)に宛人の1人として「廊坊」が登場。重盛の嫡男・重伝のことか。
②,元和4年(1618)5月13日付け「廊坊重伝訴状」(『熊野那智大社文書』4巻,潮崎稜威主文書179号)に送人として「廊之坊重伝」が登場。

〔廊之坊円相関係史料及び記述〕

①,慶安4年(1651)7月28日付け「廊坊円相大工職寄進状控」(『熊野那智大社文書』4巻,潮崎稜威主文書182号)に送人として「那智山廊之坊円相」が登場。重盛の曾孫・円相のことか。
②,不詳年7月14日付け「色川覚大夫軍役覚書」(『熊野那智大社文書』4巻,潮崎稜威主文書186号)に宛人として「龍寿院様」が登場。この「龍寿院様」とはだれか。もしこれが円相をさしているのならば②と③は入れ替えるべきかもしれない。
③,寛文5年(1665)10月日付け「霜月会竪義者請定」(『熊野那智大社文書』4巻,潮崎稜威主文書188号)に「伝燈大法師位円相」が登場。
④,寛文11年(1671)6月吉日付け「田楽装束寄進状写」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1162号)に田楽装束を寄進した熊埜銅山座連中35人の1人として「上執行瀧寿院」が登場。
⑤,元禄五年(1692)11月8日付け「熊野権現講式」(『熊野那智大社文書』5巻,参考資料2)の提出責任者として「那智山執行権大僧都法印龍寿院」が登場。
⑥,宝永5年(1708)6月9日付け「六月会扇骨仕用覚」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1174号)に「西座執行龍寿院円仙」とある。龍寿院円相は少なくとも1708年以前に亡くなっていることがわかる。

〔中之坊関係史料及び記述〕

①,延宝5年(1677)極月14日付け「那智山和談証文写」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1164号)に新宮へ出張した人々の1人として「同惣代中之坊」が登場。清賢のことか。

〔神光坊関係史料及び記述〕

①,寛文11年(1671)6月吉日付け「田楽装束寄進状写」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1162号)に田楽装束を寄進した熊埜銅山座連中35人の1人として「神光坊」が登場。重盛の曾孫・重恵のことか。
②,延宝5年(1677)閏12月3日~極月14日付け「那智山和談証文写」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1164号)にの記主として「那智山執行代神光坊」が登場。

〔真覚坊関係史料及び記述〕

①,寛文11年(1671)6月吉日付け「田楽装束寄進状写」(『熊野那智大社文書』4巻,米良文書1162号)に田楽装束を寄進した熊埜銅山座連中35人の1人として「真覚坊」が登場。重賢のことか。