新発見の熊野本宮関係文書と敷屋庄の御師(二,御師・見座氏)

   二,御師・見座氏

 俗人である見座氏の本拠地は西敷屋にあったようで,熊野川左岸,少し奥まった場所に子孫が住む立派な石垣のある屋敷が現在でも残されている(西敷屋二一六番地)。
 嘉慶二年(一三八八)三月二八日付けの「ミさの三郎右衛門入道山譲状」〈兵庫県立歴史博物館蔵〉に,譲渡者として「ミさの三郎右衛門入道かね□□」〈見座の三郎右衛門入道〉,被譲渡者として「ちやくししん左衛門」〈嫡子新左衛門〉が登場する。

【史料二①】
一やハたか山の事,東かハをかきり,南ハかゑつつみをかきる,西ハなかミねをさかう,北ハさるはしのはさをさかう,
一なかのの山の事,東もものきのうしろをかきる,しもゑきてハ又太郎三郎ハつくりよりなかののそうへミあつへし,
西ハやすハらのちやうしやうをさかう,北ハたにのなかをさかう,ここのためにゆづりの状くたんの事しねこのむねをそむかん物ハ,ふけうのことあるへし,このほか北ハ八郎いたし□□□□□□□候らすへし,そのほかあらそいあるへからす,ちやくししん左衛門えせうにゆつルところ実也,
   嘉慶戌辰二年三月廿八日
         ミさの三郎右衛門入道かね□□(花押)
一あら□ちをあつけたるによんて,かちやの二郎をゆつりのしち也,

 この文書から,「見座三郎右衛門入道兼□------嫡子新左衛門」という親子関係が推定される。
明徳元年(一三九〇)一二月一三日付けの「ミさのしやうけん屋敷売渡状」(「新出熊野本宮大社文書」32号〈『山岳修験』九号所収〉) に,売渡者として「ミさのしやうけん兼成」〈見座将監兼成〉が登場する。

【史料二②】
(端裏書)
「ミさのしやうけんとのうりけん」
うりわたす 屋敷の事
            東ハ与一か屋敷をかきる
合一所,在所坪口西ハ大道,南ハせうのさゑもん
            とののやしき,北ハ孫太夫か屋敷
右の屋敷ハ,あり太夫か重代のやしきを下人たるあひた,ちかいめあるによてとりあけて,代銭十二貫文ニ永代本山の助殿ニうりわたし申候,このうへハさらに他人さまたけあるましく候,もしちかいめも候ハハ,本銭一倍のさたをいたすべく候,尚々いかやうのちかいめ候とも身かさたとしてさはくり申へく候,仍うりけんの状如件,
    明徳元年十二月十三日
           ミさのしやうけん兼成(花押)

 見座三郎右衛門入道兼□と見座将監兼成の関係はどうなっているのか。同様に,見座新左衛門と見座将監兼成の関係は・・・・。
 一六年後の応永一三年(一四〇六)正月一一日付けの「ミさのしやうけん城山譲渡状」〈兵庫県立歴史博物館蔵〉に,譲渡者として「ミさのしやうけん」〈見座の将監〉と,被譲渡者として「いとこのをいのしんさ衛門太郎」〈従兄弟の甥の新左衛門太郎〉が登場する。

【史料二③】
(端裏書)
「□□のしやうけん入道のゆつり□□」
ゆつりわたす申しろやまの事
右,仲山ハ三さのしやうけん入道から申大とあるニよんて,いとこのをいのしんさ衛門太郎ニ永大ゆつりわたすところ実也,但さかいハ,ミなミハたにをかきる,にしハミ弥をかきる,きたハとののおはかのきハからミ弥のくちゑすくにとをして,但ミさをはいけてのふへし,又この状をそむかんこともにをいてハいらんの申へからす候,よんてこにちのさたのために,状如件  ミさのしやうけん入道(花押)
   応永十三年正月十一日

 この「しろやま」とは背後にある高い山のことであろうか。
 見座将監と見座新左衛門太郎の関係は,後者が前者の従兄弟の甥であるとのことであるが,これは従兄弟で甥ということをさしているのであろうか。また,見座新左衛門太郎と先に出てきた見座新左衛門とは同一人物であろうか。

一三世紀      一四世紀       一五世紀       一六世紀

             見座の三郎右衛門入道
               嫡子新左衛門
               見座将監兼成
                  見座の将監
                  従兄弟の甥の新左衛門太郎