市鹿野城についての学習と見学
7月8日、和歌山城郭調査研究会主催の「裏山のお城跡に登ろう―山中の謎の城跡・市鹿野城―」に行き、公民館で代表の白石氏から、残された遺構から市鹿野城をどのような城と考えたらよいかについて予備学習しました。
その後、20名ほどの参加者達と共に現地に向かい、平阪貞敏氏のご案内により、具体的に遺構を観察しながら、さらに学習を深めました。
【城跡の特徴】
①、城跡は山頂部にあり、集落からの高低差はほぼ100m。
②、単郭の山城で、「曲輪」は東西30m、南北55m、1650㎡の規模があり、「曲
輪」の周囲に「切岸」、内部に「土塁」が築造されている。
石積みされた「切岸」
③、北側城外の尾根続部には「堀切」も築造されていたようである。
「堀切」
④、集落の方に向かって、尾根上に南東から北西にかけて最大高3mの「切岸
」が築造されている。
⑤、集落とは反対側の西北部の「土塁」の切れ目に、城内への入り口に当たる
「虎口」が築かれ、「虎口」付近の「土塁」の外側の比較的低い「切岸」の下は
通路のようになって南東方向に向かっている。
「虎口」から城に入る
城主らの居館があったと推定される少し高くなった場所
【市鹿野城の役割】
外部から襲来した軍勢がここを拠点に臨時的に駐屯していた「陣城」としての可能性を考えたい。具体的にいうと、天正13年(1585)以降、この地を領した大和・紀伊国主の羽柴秀長が山林資源確保のためにここに家臣を駐留させた可能性について考えたい、というのが、白石氏ら調査研究会の当面の考え方のようである。