『安宅一乱記』の「ある記事」とその事実性について


 安宅(あたぎ、日置川)地域と周参見(すさみ)地域を中心に紀州の戦国時代について描いた戦記の1つに、『安宅一乱記』(あたぎいちらんき)という江戸期の写本があります。

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   その巻6に、次のようなことが書かれています。
  戦国時代の中頃、安宅一乱を受けて享禄3年(1530)の11月26日に周参見一族内でも内紛が起こり、120余騎の一揆衆の旗頭・周参見兵衛に加担した大間地村住の大坂少輔や大坂入道宗安、大坂大夫某兄弟らがそれに関係し、周参見氏の拠点・中山城を占領し、城主らを追い遣ったという。
 しかし、その翌日、前日の戦いに敗れて立野城に立て籠もっていた周参見太郎が、その急を聞いて300余騎で安宅(日置川流域)から駆け付けた大野相模守らの支援を得てこの兵乱を鎮圧しようとした。
 大坂大夫某はその戦闘の最中、中山城内を駆け抜けて上へ退こうとしたところを射殺されその遺骸はそのままそこに放置された。翌年9月、大坂大夫某の遺骸は、その郎党(家来)の浦為六と浦助大夫らによって見つけられ、亡くなったその場所に葬られた。その後、そこに石塔が建てられたという。

 下の写真は山麓から眺めた中山城Ⅰ郭およびそれに続くかつてのⅡ郭があった大日山の写真です。
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  実は前々から「大坂どの」に関係する『安宅一乱記』巻6の記述が気になっていましたので、2月5日に中山城を再訪問した際に、近くを通りかかった岡本さんという女の方に、この事件に関わる事物や事象の存在についてお聞きしたところ、関係があるのではということで、わざわざ「堀切」地区の切通しの上にある「大坂どの」(大坂殿)へ案内してくれました。

 すると驚いたことに、そこには大きくて部品が全部そろった立派な宝篋印塔がありました。
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 これは、たぶん戦国~織豊期(16世紀)にかけてのものでしょう。
 そのすぐ傍には、『安宅一乱記』などを参考にしてまとめたと思しき立派な「大坂殿由来記」が掲示されていました。

 ここにもその時代を生き抜けた人間の歴史の跡が残されていたんですね。